「薀蓄好きのための格闘噺」夢枕獏
格闘技への愛情の深さが感じられるエッセイ集。
特に興味深いのが、「日本書紀」に出てくる当麻蹴速(たいまのけはや)に関する考察と、ジャイアント馬場に関する考察だ。
当麻蹴速といえば「力自慢なのに出雲の野見宿禰(のみのすくね)に蹴り殺された男」という程度の認識しかなかったが、夢枕獏によると、格闘家として非常にかっこいいセリフを残した人物だったようだ。
日本書紀に記述されている「四方に求むに、豈我が力に比ぶ者有らむや。何とかも強力者に遇ひて、死生を期はず、頓に争力すること得てむ」(=この世におれより強い男はいるのか。何とか強い男に出会い、生き死にを気にせず、思いきり闘ってみたい)というセリフ。
実際に野見宿禰との対決は、あばら骨を蹴り折られ、倒れたところ、腰骨を踏み砕かれて死ぬ、というデスマッチになったのだが。
夢枕獏は、当麻蹴速の言葉に、ひたすら最強を究めようとする格闘家魂と、強すぎてまわりに相手がいない者の孤独を感じ取っている。
死後、当麻蹴速の領地は没収され、野見宿禰に与えられており、諸行無常という感じだが、こんな男なら蹴り殺されても「我が生涯に一片の悔いなし」と、ラオウの心境だったかもしれない。そう考えると、かっこよく思えてきた。
ジャイアント馬場は、鳥取砂丘のようにえもいわれぬ圧倒的存在感を放っていた。胡散臭いアントニオ猪木は嫌い。馬場のほうが、遥かに好感が持てた。
夢枕獏は猪木のほうが好きだそうだが、馬場のえもいわれぬ圧倒的存在感を上手に言い表しており、確かに、なるほど、と思った。
つまり、格闘家というのは誰しも強さを売りにするが、馬場の場合、年老いてよぼよぼになってもリングに上がり続け、それでもファンを満足させられた唯一無二のレスラーだという。
表現が的確なので、もう少し夢枕獏の言葉を借りると、、、
「舞台に馬場が上がっている、そして動いている──そのことが全てであり、そのことで観客は満足した。リングに立つ馬場の存在感そのものが観るに価するものだったのである。薄い胸板の痛々しさや、細い腕、漂う哀しみ、その何もかもをひっくるめて、馬場は馬場であった。観客は馬場のリングに強さを求めなかった。今、おれの目の前のリングに馬場さんが立っている──我々はそのこと、その存在そのものに感動し、愛情をもってその姿を観に行ったのである」
馬場の試合が見たくなった。
このほか、力道山と木村政彦の対決に関する考察、「強いとはどういうことか」と夢枕獏が問うたのに対する大山倍達の答え、ホームズとルパンが柔術の達人という考察など、面白い話がいっぱい。
(2015年1月12日Facebook投稿を転載)