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「首斬り朝」原作・小池一夫、作画・小島剛夕 死刑廃止を願いながら首を打つ

「首斬り朝」愛蔵版1巻

 

「首斬り朝」原作・小池一夫、作画・小島剛夕

 

江戸時代を舞台にした劇画(愛蔵版は全8巻)。

 

将軍家の刀の斬れ味を試す役職「公儀御様し役(こうぎおためしやく)」を受け継ぐ山田家の3代目山田朝右衛門吉継が主人公。

 

死刑囚が罪を犯すに至った経緯をなぞりながら、朝右衛門との心のふれあいを描いたりする1話完結スタイルの作品。

 

子どもの頃、実家の本棚にあったのを手にとって気に入った。

 

実家にあった文庫版を自分の物にしていたが、紛失したため古本屋で買い替えた。文庫版のほうが表紙絵に雰囲気があってよかったが、見つけられなかった(ちなみに、実家にあったのは、古い方の文庫版。現在販売されている文庫版とは違う)。

 

この作品は、人の命の尊さというメッセージが全編を貫き、朝右衛門は首斬り役として世間に嫌われ、死刑制度に疑問を抱きながらも、自分の宿命として受け入れ、自らを厳しく律して役目をこなし生きていく。

 

なお、公儀御様し役は実在の役職で、3代目山田朝右衛門吉継も実在の人物らしい。

 

サンソンと朝右衛門を比べると、、、

 

死刑執行人として世間から忌み嫌われるというのは共通。

 

サンソンは死刑執行が本業で、医師が副業だが、朝右衛門は刀の斬れ味を試すのが本業であり、死刑囚の首斬り役は臨時的に依頼される仕事。

 

ただし、刀の斬れ味は死刑囚の屍体を斬って試すので、人を殺し、屍体を斬り刻む職業として世間からは嫌われた。

 

フランスの死刑執行人は人体に詳しくなり、医業を副業としたというのは理にかなっていて面白い。

 

日本では刀の斬れ味を試すのに屍体が使われたというところに人権軽視がうかがえ、これも面白い。

 

作中の登場人物が「人の生命より刀のほうが、価値があるのか」と疑問視する発言をしている。

 

サンソンは、死刑執行人として差別されることを思い悩み続けて生きた。

 

「死刑制度は間違っている」という最後の心の叫びでは、冤罪の時に取り返しがつかないことや更生のチャンスを奪ってしまうことのほか、「どんな理由があれ、人が人の命を奪うことは正当化されず死刑執行人という呪われた一族を生んでしまう」ということを、理由に挙げている。

 

感情的で人間くさく親しみが持てる。

 

朝右衛門は、世間から嫌われるのは仕方ないこととして受け入れている。

 

自ら手にかけた者の位牌をつくって葬い、人の命を奪う者が新しい命を生んではならないとの考えを持ち、独身を通している(作中では、主人公3代目吉継は実父から役目を受け継いでいるが、史実では、山田家は一部の例外を除いて世襲でなく、試刀術に優れた弟子に跡を継がせたらしい)。

 

また、朝右衛門は、サンソンと同様に、冤罪の可能性があり更生のチャンスを奪うこと、人が人の命を奪うことはあってはならないという考えから死刑制度には疑問を持っている。その上で「いつの世にかそれがしは人の首を打ちたる大悪人として罵られることを念じながら首を打ち続け申す」と言っている。

 

ここまで厳しく自分を律して生きていける人間が現実にいるかなと思うくらい理想主義だが、かっこいい。

 

※※※以下、読書メモ※※※

 

作中の問答から朝右衛門の思想がうかがえるシーンを適宜抜粋して引用。

 

<冤罪事件について町奉行との問答より>

 

朝右衛門「たとえいかなる人間であろうとその生きる権利だけは正当に扱われなければならぬはずと心得ます。個が集まりて衆をなし、衆なるがゆえに御法が律せられているとせば、その個の権利を守ってこそはじめて衆の権利をも守り得べきと思います。一人の正義を見捨て百の悪を守られますや。もしそのようなことがあれば人の世は闇。それこそ大義は立ちますまい」

 

町奉行「そのほうにたずねたいが、そも刑罰とは何であろうかの。人が人を罰し、その生殺与奪の権を握るということが、そのほうの論旨によらばできないことになる。その者の正義を個として考えるかぎりにおいては。しかし、衆たるべきところに正義の基準を置くかぎりは、人は人を裁ける。ゆえに刑罰とは見せしめのためにあり、応報のためにある。見せしめの刑を行うことによってその恐ろしさ、むごたらしさを広く衆に知らしめ、かような報いがわが身に返ってくるによって、罪を犯すなと一般予防の効果をなす。それが人を裁き、刑罰を科すことの本義であろうが」

 

朝右衛門「そうは思いませぬ」

 

町奉行「なに?」

 

朝右衛門「仏典にもあるが如く人の性は生まれながらにして無心なるものでございます。それが長ずるにおよんで悪に走るは、それはその者を取り巻く環境(まわり)のせいであると思います。したがって罰せられるはその人間ではなくしてその犯したるところの悪ではないでしょうか。ゆえにそれがしは罪人を憎まずその犯したる罪を憎み罰すべきと心得ます。刑罰の本義はそこに定められるべきであって一般予防の応報たるべきではなくその者を再び善に矯正する特別予防たるべきと考えまする。それがしは裁きの下った罪人を首打つ者、いわば、直接手を下す刑の執行人でございまする。であればこそ、無実の者の首をはね、後味の悪い思いをしとうはございませぬ」

 

<御様し役の家に生まれた女絵師、山野しょう子との問答より>

 

しょう子「そも、生き様しとは、、、首打ちとはいったい何なのでございましょうか。人間が人間を殺すとはいったいどういうことなのでしょうか。同じ人間としてこの世に生まれた者同士のどうして片方だけに殺す権利があるのでしょうか。いったいその権利はどこから与えられたものなのでしょうか。世の中が法と秩序で規制されているから、、、罪を犯したからという理(ことわり)はよくわかります。でも、心の底では納得できないのでございます。さむらいの家に生まれたならば、金持ちの家に生まれたならば犯さないですむ罪、殺されないですむ罪があまりにも多いのではないでしょうか。そして、生き様しとは、刀の斬れ味をためすために、犯さないですむ罪を犯した者たちが殺されるのでございます。人間の生命よりも刀のほうが貴重であるということはどういうことなのでございましょうか」

 

(中略)

 

朝右衛門「そなたが勘右衛門どのを手にかけたるごとく私も父を斬りたる者」

 

しょう子(驚いた表情)

 

朝右衛門「父は私に山田流試刀術の奥義を会得させるために自らを様し体として斬らせたのでござる。そのとき父はすでに陰腹を切っており、ために奉行所では私が父の介錯を為したという見解をとり、それ以上の追及はなされなかったのでござるが、しかし、父が陰腹を切ったのはあくまでも私に御様しの印可を授けるためのことであり、さらには私が親殺しの罪にも問われることのなきようにとの配慮からであり、すべては私のためであるがゆえに、私が父を手にかけたことにはまぎれもござらぬ」

 

しょう子「親殺しの大罪人と知りながらなぜ私を妻に申し受けようとなされるのでございましょうや。なにとぞご本心をお明かしくださりませ」

 

朝右衛門「血が美しゅう見えることがござる。人が斬られて死ぬる光景がこの世のものとも思えぬほどに美しゅう見えることがござる。幼い頃よりそのような光景を目の当たりにして長ずればけだし当然のこと。この世で人の生命ほどはかなきものはなく、ましてやその生命の尽きる瞬間ほど美しいものはないと思うようになるのでござる。私がそうでござった。やがて、見ることから斬ることへ。血を見、人を斬ったる日は心身ともに爽快感を覚え、五体にみなぎる充実感があり、そうでない日は鬱々として不快でござった。それが昂じたなれば私は血迷うた者になり果てていたことでござろう。そんなときに、父を斬り申した。父は私が血に迷う者になりかけていたことを見抜き、そのために自らを様し体として斬らせたのではなかったかと、いまに至って思うのでござる。あるいは、それが父の真意ではと」

 

しょう子「や、山田さまは私が血に迷うておると、、、」

 

朝右衛門「左様。そうでなくては自らの五体に傷をつけ、血をもて絵を描く必要などござるまい。さらにそなたが血を見つめる眼は異常にござる」

 

しょう子「で、では、私を妻に申し受くるは、あわれみからでございますか」

 

朝右衛門「私はそなたにかつての己の姿を見るような気がするのだ。おそらくこの世でそなたの性(さが)を治せるのは私をおいてほかにはあるまいと思う。そこに縁(えにし)を感じればこそ、血に迷うた者同士、たがいに手を取り合うて生きんと願ったのだ。私は生涯に伴侶を持たぬと誓った男だ。生まれてくる子に私やそなたのような生きざまをさせぬために。しかし、そう思う二人なればこそ、人の生命の貴さを知るわれらなればこそ、子らにその遺志を継がせ得れば、一代でなせなかったことを二代、さらには三代、四代にわたって果たせ得るのではないかと思い直したる次第」

 

<火付盗賊改の中山勘解由との問答より>

 

勘解由「山田どの。悪を根絶やしにいたし、人がみな幸せに暮らせる世の中をつくるためにはいったいわれわれ十手者は如何せばよいのでござろうか」

 

朝右衛門「いまの世では」

 

勘解由「無理と申さるるか」

 

朝右衛門「一に貧富の差、一に身分の差、一に人たるの権利を享有するや否やの差があるかぎりは。首を打つときに、必ず思うことにござる」

 

勘解由「そのような時世が到来するであろうか」

 

朝右衛門「人が人として人を認め、人と一緒に人の世をつくりあげていくからには必ず到来すると信ずる。そう信じ、念じながら人の首を打ち続け申す。人が人を殺すということはどのようなことがあっても許されるはずはなく、いつの世にか死罪が皆無となることを信じて、現世を死神となりて人の首を打ち続け申す。それがしの行為が非人間的、非人道的なることとして一日も早く非難され、後世にその為の証拠(あかし)を残すために首を打ち続け申す。いつの世にかそれがしは人の首を打ちたる大悪人として罵られることを念じながら首を打ち続け申す。それがしの首打ち行為を悪例として二度と人が人の首を打つことのないように念じながら首を打ち続け申す。それがしに首を打たるる者たちにもかわりて打つ者と打たるる者の声なき叫びを一本の白刃に託しながら」

 

(2017年7月8日Facebook投稿を転載)