「ルードウィヒ・B」手塚治虫
芸術的な感性と科学的な分析は、補い合うものなのだろうか。
双方の分野で才能を発揮したレオナルド・ダ・ヴィンチは、芸術と科学の融合を唱え、解剖して人体の仕組みを学ぶなど科学的知識を生かして絵を描いた。
相対性理論で知られる物理学者アインシュタインは、音楽好きで、バイオリン演奏がうまかったらしい。「私は音楽のように考える」とも語ったという。これがひらめきの秘密だったのか。
漫画家の手塚治虫は、医師免許を持ち、ピアノ演奏が得意だったという。
作曲家ベートーベンを描いた未完の傑作「ルードウィヒ・B」には、バッハの「平均率クラヴィア曲集」を可視化した描写がある。
音符や擬音を描くのではなく、ブロックを組み合わせたような立体物を描いて表現している。
作中の解説によると、平均率クラヴィア曲集は「ピアノ奏法の原点ともいえる名曲で、その一つ一つの音は対位法という法則に従って厳密に積み重ねられ、まるで巨大なゴシック建築か分子の列のようにしっかり組み立てられている」という。
このような解釈からして、面白い。芸術と科学を融合できる天才の頭の中が少しイメージできた。
月刊誌「日経サイエンス」2024年8月号の特集「美を科学する」では、工業デザイナーで東京大特別教授の山中俊治氏のインタビューが興味深い。
山中氏は次のように説く(一部抜粋して紹介)。
「こういう単純な式で、こんなにも複雑な現象をいっぺんに語れたという快感がある。それが美的感覚に結びついているから、シンプルな法則は美しいと感じます。抽象化によって、それまで見えなかった構造が見えたときに、真理に近づいた快感が得られます」
「抽象という言葉は、美的感覚を語る上では欠かせないキーワードです。ルネサンスの頃までは精密に自然を描写し、そこからシーンを切り出すことが美しさの本質とされていました。その視点だけで見ると、エジプトの古代遺跡にたくさん描かれている壁画は『下手』としか思えない。横顔であっても目は正面を向いていて、この時代の人はなぜ自然を性格に捉えられなかったのかということになります」
「ところが、近代になると、こちらのほうが美しいのではないかと思い始めたわけです。抽象画はもちろんですが、日本の漫画や浮世絵などもそうです。本物そっくりな描写に求める以上のリアリティがあると気づいたことが、近代美術のターニングポイントになりました」
そして、芸術と科学の共通点は「抽象化」なのだと説く。
物理学者・寺田寅彦のエッセイ「科学者と芸術家」も興味深い。
簡単にはとらえがたい天体の運動も、シンプルな万有引力の法則に収まることを発見した時に、ニュートンが感じたであろう美的な感動を引き合いに「科学者には一種の美的享楽がある」と指摘。
一方で「芸術家は、科学者に必要なと同程度、もしくはそれ以上の観察力や分析的の頭脳をもっていなければなるまい」とみる。
そのうえで「ある人は科学をもって現実に即したものと考え、芸術の大部分は想像あるいは理想に関したものと考えるかもしれないが、この区別はあまり明白なものではない。広い意味における仮説なしに科学は成立し得ないと同様に、厳密な意味で現実を離れた想像は不可能であろう」と説く。
冒頭に書いたように、私は「芸術的な感性と科学的な分析は補い合うものなのだろうか」と考えていたが、そういうことではないようだ。
芸術も、科学も、想像力や観察力を駆使した分析、創造のたまものなのだ。
「芸術が心を豊かにする」というのは、単に気分が良くなるだけでなく、創造力の源泉になるという意味なのだろう。
「ルードウィヒ・B」について
ベートーベンの物語なので、作曲や演奏のシーンが多く出てくる。
音符をたくさん描いて表すケースが多いのだが、バッハ「平均率クラヴィア曲集」の演奏シーンのように、視覚的に工夫して描いたシーンは、いくつもある。
例えば、リギーニの「来たれ愛よ」を主題とした24の変奏曲の演奏シーンは、演奏するベートーベンのまわりに多数の花が咲き乱れる。
例えば、ベートーベンが変奏曲の名手だったと解説するシーンでは、川の流れや鳥の姿が変化する様子を描く。
例えば、音楽界に強い影響力のあるシュターケル僧院長に腕前を披露するシーンでは、雲の上に音符が突き抜けた描写で表す。
音楽の描写だけでなく、この作品は、ベートーベンの生き様も、それと対比させるかのようなサブ主人公の貴族、フランツ・クロイツシュタインの生き様も、面白い。
この頃は、音楽は貴族の楽しみのためのもので、音楽家は貴族の召使いのような低い立場だった時代。ベートーベンが尊敬するモーツァルトでさえ、そうだった。
そこで、そんなモーツァルトに対し、ベートーベンが放つ言葉が好きだ。
「音楽は人間みんなのもんです。貴族だけのものじゃありません。音楽家も貴族の召使いじゃありませんーーーッ」
「ぼくは・・・・・・一生のうちにきっと、ぼくの音楽の前に貴族をひざまずかせてみせます!!」
この作品は、手塚治虫が亡くなって未完となったのが、本当に惜しい。ベートーベンの生き様を最後まで、手塚治虫のアレンジで読みたかった。
<補足説明>
ダニエル・キイスの「24人のビリー・ミリガン」には、「絵と医学は補い合っている」という、ビリーのセリフがある。
布施英利の「死体を探せ!」には、美術家であり科学者でもあったレオナルド・ダ・ヴィンチのことが出てくる。