「史記列伝(1)」小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳
古代中国・漢の歴史家・司馬遷が書いた歴史書「史記」は、時系列で王朝の歴史を記す「本紀」と、人物の生きざまにスポットを当てる「列伝」などで構成される。
司馬遷は、歴史家の父から歴史書編集の念願を託された。
気骨のある人物だったようで、君主に直言して禍を被った。
敵との戦いで漢の将軍・李陵が危機に陥り、やむなく投降する事件があり、君主・武帝が激怒していたところ、司馬遷は、李陵を擁護して自らも怒りを買い、宮刑(男子のシンボルを切り取る屈辱的な刑罰)に処された。
この屈辱に耐えて「史記」を書き、父の願いに応えた。
本書は、70編からなる「列伝」のうち18編を翻訳して収録。
私が好きな伍子胥、孫武、韓非らが取り上げられている。
「列伝」は、それぞれの人物について、司馬遷の批評が添えられており、司馬遷の人生観がうかがえるのも興味深い。
<晏嬰リスペクト>
例えば、礼儀を重んじ、気骨のある政治家・晏嬰(あんえい)に尊敬の念を表す。
晏嬰は春秋時代の強国・斉の大臣で、君主におもねらず、直言した。
無道な君主・荘公が有力貴族・崔杼(さいちょ)の妻と密通し、怒った崔杼に殺された時、晏嬰は、崔杼の威勢を恐れずに荘公の遺体を抱いて泣き、礼を尽くした逸話もある。
君主を殺す不道徳を犯した崔杼にはその後も従わなかったが、一目置かれ続けたとされる。
司馬遷は、晏嬰が荘公の遺体に礼を尽くした逸話に触れて「義を見てせざるは勇なきなりだ」とたたえ、「御者としてでも仕えたい」と敬慕した。
司馬遷は、李陵をかばって武帝に直言した自らの姿を重ねていただろう。
晏嬰と同じく気骨のある人物として自らを誇りに思うとともに、武帝の怒りを買った時にかばってくれなかった周囲の人たちに当てつける思いもあったに違いない。
<伍子胥に同情>
君主に直言して怒りを買い、死を賜った伍子胥(ごししょ)にも同情的だ。
伍子胥は春秋時代、「孫子」と呼ばれてたたえられる兵法家・孫武ともに、呉を強国に押し上げた武将。
もともとは隣国・楚の武将で、無道な君主・平王に父と兄を殺され、復讐を誓って呉に逃げた。
(平王は伍子胥の父を捕らえ、伍子胥とその兄に「父を助けたかったら出頭しろ」と告げた。兄弟は、行っても父と一緒に殺されるだけだと、わかっていた。伍子胥は逃げて復讐することを誓い、兄は「2人とも逃げたら父に不孝になる。復讐はお前に任せる」と言って、出頭して殺された。この兄も、かっこいい)。
伍子胥は、苦労の末、呉の将軍に出世し、軍勢を率いて楚を攻め、滅亡寸前に追い込んだ。
既に死んでいた平王の墓を暴き、遺体にむち打った逸話も知られる(「死者にむち打つ」という故事成語になった)。
真っすぐな激情家の伍子胥を火に例えるなら、臨機応変でクールな孫武は水。
対照的な2人のコンビで、呉の隆盛を築いたのが面白い。
伍子胥は、その後、慢心した呉の君主・夫差と関係が悪化し、それでも直言を続けて夫差の怒りを買い、死を賜った。
復讐に生きた激しさといい、悲劇的な最期といい、私好みの人物。中国の春秋戦国時代の人物で、一番好きだ。
司馬遷は「人の心に芽生えた怨恨は恐ろしい。王者でさえも臣下に怨みの種をまいてはならない。もし、伍子胥が父と一緒に死んでいたら、虫ケラと変わりない。小さな義理を捨て、大きな恥をそそいだから、後世に名を残した。悲しいことではある。呉に逃げる道中では乞食をしたりして耐え忍んだ。烈しいますらおでなくて、これがやり通せただろうか」と評価する。
「悲しいことではある」は、司馬遷が心を寄せた人物の評論で出てくるフレーズ。
世のはかなさというか、万感の思いが込められていて、好きな言葉だ。
<進言の難しさ>
君主の信頼を得て、進言する難しさを著書「韓非子」で説きながら、実際には難を逃れられなかった韓非にも、同情的だ。
韓非は、戦国時代の弱小国・韓の王族。
隣の強国・秦に脅かされる祖国の行く末を憂い、策を進言するが、こびへつらう佞臣に囲まれた君主には、聞いてもらえなかった。
韓非は、家臣に大きな権限を持たせずに君主の権力を強化し、佞臣を退けるなどの富国強兵の道を「韓非子」にまとめた。
君主に進言するのがいかに難しいか、君主の信頼を得て、心置きなく進言し、策を実現できるようにするにはどうしたらいいか、その心構えは「説難(ぜいなん)」という章に盛り込まれている。
「韓非子」は、この「説難」が面白い。
孫武の兵法書「孫子」と同様に、人間心理の分析に基づいており、現代のビジネスや処世術にも役立つ教えがある。
詳しくは、またの機会に書きたい。兵法書「孫子」も。
皮肉なことに、「韓非子」に注目し、気に入ったのが秦の君主・政(のちの始皇帝)。
「この著者と会えるなら、死んでもいい」と言うくらい感動した政は、韓非を秦に招く。
ところが、韓非の優秀さに、自分の地位を奪われると恐れた秦の大臣が「韓非は韓の王族なので、秦のためには働かないでしょう。韓に返さず、殺すべきです」と政に吹き込んだため、韓非は投獄され、最終的に自殺に追い込まれた。
司馬遷は「進言がいかに困難かを知り抜いて説難を書き、そこではあらゆるケースを言い尽くした。ところが、その果ては、秦で殺された。説難を書きながら、自身はそこから抜け出せなかったことを悲しく思うのである」と説く。
当然、司馬遷自らが武帝に進言して禍を被ったことを重ね合わせているだろう。
<孫子への評価は?>
孫武の子孫である戦国時代の兵法家・孫臏(そんぴん)にも同情的だ。
孫臏は、斉の人で、兵法の才能を買われて強国・魏に招かれた。
魏には、一緒に兵法を学んだ龐涓(ほうけん)がおり、自らの地位を奪われると恐れた龐涓にはめられ、スパイの疑いをかけられて、臏刑(脚を切る刑罰)を受けた。
その後、魏を脱出して、斉に戻り、斉の軍師となって、魏との戦いで、策略を駆使して龐涓を破り、復讐を果たした。
司馬遷は「よくこれを行う者は必ずしもよく言わず、よくこれを言う者は必ずしもよく行わず」(=知ることと実行することは別だというような意味)と指摘。
そのうえで、「孫臏が龐涓を計略に落としたのは明察だった。だが、刑罰の憂き目に遭う時の処置をあらかじめ立てることはできなかった。悲しいことではある」と説く。
君主への進言とは違うが、わなにはめられて禍を受けた人物にも、司馬遷は同情を感じるのだろう。
一方で、孫武の人物評がないのが不思議だ。
「呉が強国になったのは、孫武の力が大きかった」と記される程度。
孫武は、呉の君主に仕える際、君主におもねらず、毅然とした態度を取って、軍の規律の大切さを示した逸話が有名だ。
具体的には、君主が孫武を試そうと、たわむれに「後宮の女たちでも訓練できるか」と命じたのに応じ、君主が寵愛する妃を隊長として訓練を開始。
後宮の女たちはふざけていて、指示に従わず、最終的に、孫武は「兵が命令に従わないのは隊長の責任だ」として寵姫を処刑する。
君主が「殺さないでくれ」と止めたのに、「将として軍を率いる時は、君主の命令でも受けない」と言い放って、だ。
この逸話は、司馬遷好みの直言に通じると思うのだが。
孫武の後半生は不明な点が多いらしく、史記も記していない。
呉が強国になり、君主が慢心するようになると、孫武は引退して禍を避けたという説がある。
漫画家・鄭問の代表作で、春秋戦国時代の人物を取り上げる「東周英雄伝」では、この説に基づいて、呉の隆盛を築いた功労者2人、孫武と伍子胥の別れのシーンが描かれている。
君主の慢心を指摘する孫武に対し、伍子胥は「わが君はそんな方ではない」と引き留めようとするが、孫武は「人にはそれぞれ志があるのですよ」的なことを言って立ち去る。
のちに、伍子胥が君主に死を賜るのは、既に書いた通り。
君主に直言し、引き際も心得た孫武は、理想的な賢人と言ってもいいと思うのだが。
司馬遷が孫武をどう評価するのか、読んでみたかった。
<白起や王翦への酷評は不可解だ>
司馬遷は、薄情な人物には厳しい。
ここで詳しくは書かないが、例えば、呉起(孫武と並び称される兵法家)、商鞅らがそうだ。
この酷評は、まだ、わかる。
しかし、それは言いすぎ、言いがかりではないかと思うような不可解な人物評もある。
白起や王翦(おうせん)がそうだ。
2人とも、戦国時代の秦の名将。
白起は、強国・趙との戦いで功績を立てた。
戦意を失い投降した大勢の趙の兵を「生かしておくと反乱の恐れがある」と言って、殺した逸話が有名(この辺が、司馬遷には気に入らないのだろうか)。
白起は、この機会に徹底的に趙をたたいておくべきだと考えていた。
ところが、もし、そうなると、白起の手柄が大きくなり、自分の地位が脅かされると恐れた秦の大臣・范雎(はんしょ)が「兵が疲れている」として、休戦を進言したのに、君主が乗ってしまい、白起は撤退することになる。
これで、やる気をなくした白起は、君主との関係が悪化し、最終的には死を賜った。
秦の国民は白起の悲劇的な死を悲しんだという(「史記」も、そのことに触れている)。
司馬遷好みの禍被りパターンだと思うが、人物評は「敵の動きを見抜き、変に応じて奇計きわまりなく、名声は天下に鳴り響いた。けれども、范雎のたくらみには手も出なかった」と、そっけない。
「悲しいことではある」という言葉もない。
身内の足引っ張りに気づかなかったのが、まずいのなら、王翦はどうか。
王翦は、後顧の憂いをなくして、戦いに臨み、大国・楚を打ち破った。
後顧の憂いをなくしたとはどういうことかというと、、、
王翦は、大国・楚と戦うには多数の兵が必要だと言って、秦の兵力の大半を預かって出陣していた。
人間不信の君主・政の性格を考えると、反乱を疑われる恐れがあると予測し、「手柄を立てたら、いい領地をたくさん褒美にください」と、おねだりをしつこいほど繰り返した。
政は、領地で満足するような人間は反乱など考えないと安心し、王翦は後顧の憂いなく戦いに専念できた。
あえて自らを小人物に見せるという、巧みな処世術だと思う。
ところが、司馬遷の人物評は「秦を支え、根本を固めることまでは、できなかった。主君の機嫌をとり、わが身をまっとうするのが精一杯で一生を終えたに過ぎない」。
これは、ひどいと思う。
身内の足引っ張りに気づかなかった白起にダメ出しし、後顧の憂いをなくした王翦には「わが身を全うしただけ」だとダメ出しする。
では、2人は、どうすれば、よかったのか。
この2人を嫌う別の理由が何かあったのか。司馬遷に聞いてみたい。