「史記列伝(2)」小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳
古代中国・戦国時代の名将・楽毅が書いた手紙「恵王に報じる書」は、読んだ者を涙させずにおかないと言われる。
楽毅は、隣の強国・斉に脅かされていた弱小国・燕の昭王に登用され、斉を攻略して滅亡寸前にまでたたきのめした功労者。
昭王亡き後、後を継いだ恵王が敵の計略に惑わされて、楽毅の離反を疑ったため、やむなく、別の隣国・趙に亡命した。
恵王は、楽毅が趙で登用されて燕を攻めてくるのではないかと恐れ、「私は、あなたを疑ったわけではないのに、燕を見捨てるのか。昭王の恩をどう考えているのか」と、言い訳&問責の手紙を送った。
これに対し、楽毅が返した手紙が「恵王に報じる書」。
それは、昭王への忠義と敬愛の心にあふれていた。
要約すると、「昭王は本当に素晴らしい君主で、私ごときを重用してくださった。私は一生懸命に仕えて、少しは役に立ったと思う。なのに、心ならずも離反を疑われた。趙に逃げたのは、昭王の名を辱めるのを恐れただけ(楽毅が処罰されると、重用した昭王は、人を見る目がなかったということになるから)。あなたを悪く言うつもりはないし、ましてや、趙の軍を率いて、燕を攻めることなど、あり得ない」といった内容。
恵王は、疑いを解き、楽毅の息子を重用して報いた。
楽毅は、趙に残ったままながら、燕とは良好な関係で生涯を終えたという。
のちの三国時代の蜀の政治家・諸葛孔明は、管仲と楽毅という2人の先人を敬愛し、自らを2人になぞらえた。
ちなみに、管仲は、春秋時代の強国・斉の政治家。
国内で後継争いが起きた時、公子の糾に付き、公子の小白(のちの君主・桓公)とは対立し、小白の命も狙った。
小白は争いに勝って君主になると、敵だった管仲を許して重用。
感動した管仲は、斉の力を強め、桓公を「春秋五覇」(春秋時代、特に有力だった諸侯5人)の1人に押し上げた。
孔明が、楽毅や管仲を敬愛して自らを重ねたのは、ただ単に、才能の面だけではないと思う。
良い君主と出会い、信頼関係を築いて、力を発揮し、歴史に名を刻んだ人生に憧れたに違いない。
つまり、「楽毅を重用した昭王、管仲を重用した桓公のような君主と出会い、私の力を発揮したいものだ」と。
実際、孔明は、カリスマ性はやたらにあったけども弱小勢力を率いるにとどまっていた劉備と出会い、熱心に誘ってくれる劉備にほれて、蜀の皇帝に押し上げた。
劉備の死後、その息子で皇帝を継いだ劉禅は馬鹿だったが、孔明は一生懸命に支えた。
劉備は死ぬ前、孔明に、こう遺言していた。
「わが子・劉禅が少しは見込みがあるなら、支えてやってくれ。馬鹿で駄目と思ったら、おまえが代わって皇帝になれ」と。
孔明は号泣して、劉禅を全力で支える覚悟を固めていた。
当時の超大国・魏との決戦に遠征する前に、劉禅に決意表明文「出師表」を提出しているのが、面白い。
絶対に、楽毅の「恵王に報じる書」を意識していたはずだ。
要約すると、「今、わが国は弱っていてピンチ。私が留守の間、みんなの言うことをよく聞いて、しっかりしていてください。劉備は素晴らしい君主で、私ごときを重用してくださった。私なりに一生懸命頑張ってきたけど、まだ、期待に応えきれていない。だから、魏を倒してくる。劉備の恩に報いるため、あなたに忠誠を尽くす」といった内容。
この孔明の「出師表」も、読んだ者は泣かずにいられないと言われる。
前置きがとても長くなった。
本書「史記列伝(2)」は、古代中国・漢の歴史家・司馬遷が記した歴史書「史記」の「列伝」70編のうち、13編を収録。
楽毅の列伝では、「恵王に報じる書」が長々と引用されている。
司馬遷も、心を打たれたのだろう。
司馬遷による人物評は、「斉の蒯通(かいとう)らは楽毅の「恵王に報じる書」を読んで涙を流したという」という程度しか、書いていないが、これは司馬遷も同じ気持ちだということを他人の例を引いて表したものだろう。
諸葛孔明は司馬遷よりのちの時代の人物だから、もちろん、例には出てこない。
ちなみに、蒯通は、秦の始皇帝の没後、覇権を争った漢の劉邦と楚の項羽とのはざまで第3勢力となった斉の韓信に仕えた人物。
本書「史記列伝(2)」で、もう1人紹介しておきたいのは、藺相如(りんしょうじょ)。
戦国時代、趙の恵文王に仕えた外交官で、知勇を備えた人物として知られる。
少し長くなるが、紹介する。
漫画家・鄭問(チェンウェン)の「東周英雄伝」がかっこよく描いているので、その場面も適宜、引用する(藺相如は、単行本2巻に登場)。
恵文王が珍しい宝玉「和氏の璧(かしのへき)」を手に入れた。
強国の秦の昭王(始皇帝の曾祖父)は、それを知ると、秦の都市15カ所と交換したいから、持ってきてくれと言ってきた。秦にだまされて、璧だけ奪われる恐れがあったので、対応が悩ましかった。
藺相如は璧を持って秦に行く使者を務めた。
「もし、都市が手に入らないなら、必ず壁を完うする(壁を損ねることなく持ち帰る)」という決意の言葉は、「完璧」という単語の語源になった。
秦に行くと、案の定、昭王は都市を渡す気がなさそうな様子。
藺相如は、璧を手に取り、王宮の柱のそばに立ち、毅然として言い放った。
「都市を渡す気はなさそうなので、璧は持ち帰る。邪魔するなら、私の頭もろとも璧を柱にぶち当てて、ぶち壊す」と。
昭王はうろたえて「ちゃんと都市を渡すから」と言い、後日、璧を渡す儀式が整えられた。しかし、藺相如は、約束を守る気はないとみて、ひそかに部下に璧を趙に持ち帰らせていた。
儀式の場で、藺相如は、またも毅然として言い放った。
「約束を守らないと感じたから、璧は持ち帰らせた。秦は強国なのだから、まず、秦が先に都市を渡しなさい。そうすれば、趙は必ず璧を渡す。一方で、私が、あなたを欺いた罪は死に値する。熱湯で煮殺されても本望だ」と。
昭王の家来は「ええ度胸じゃのう」といきり立って、藺相如を殺そうとしたが、昭王が止めた。「ここで藺相如を殺しても璧は手に入らないし、趙との関係は悪化する」と。
藺相如は無事に帰国。璧と都市の交換の話は、立ち消えになった。
やっぱり、秦は璧だけ奪う気だったということだろう。
最初の面会で、昭王が「まあまあ、ちょっと落ち着いて。冷静に話し合おうや」と言って、藺相如が油断したところ、璧を奪われて殺される可能性もあったと思う。
そうさせなかったのは、藺相如の気迫。
命を賭けた気迫が、昭王を圧倒したのだろう。
その後、別件で趙の恵文王と秦の昭王が会した宴席でも、藺相如は、趙を見下そうとする秦に対し、強気な態度でやり返して、趙のメンツを保った。
これらの功績で藺相如が出世すると、数々の戦功を上げてきた将軍・廉頗(れんぱ)は、不満を表した。「口先だけで出世した者の下に立てるか。もし、藺相如と出会ったら、辱めてやる」と。
藺相如は、これを聞いて、廉頗と顔を合わせないよう、外出を控えた。
たまたま外出した時に、廉頗と出会いそうになると、隠れた。
それを見た藺相如の家来が言った。「廉将軍に悪口を言われたうえに、なぜ、こそこそ隠れるのか。恥ずかしくないのか」と。
藺相如の返答がかっこいい。古代中国史屈指の名言だ。
「廉将軍は、秦王より強いか?」。
つまり、あの強大な秦の王でさえ、自分は怒鳴りつけた。廉頗を恐れているわけではないということ。
藺相如は、続けて言った。
「秦が攻めてこないのは、私と廉将軍がいるからだ。両虎が争えば、どちらかは無事では済まない。そしたら、秦が攻めてくるよ。私は、個人的な争いより、国家の行方を重要視しているのだ」と。
これを伝え聞いた廉頗は、己を恥じた。
藺相如を訪ねて行って、裸になり、ムチを差し出して言った。「あなたの広い心を知らずに無礼なことをした。気が済むまで、ムチで打ってくれ」と。
藺相如は「いやいや、気にしないでよ。これからも力を合わせて、趙を守っていこう」と言って、2人は「刎頸(ふんけい)の交わり」を結ぶ仲良しとなった。
(「刎頸の交わり」とは、相手のために首をはねられてもいいほどの仲良しの意味)。
実際、秦は2人が健在の間は、攻めてこなかった。
この廉頗との逸話も、実に興味深い。
もし、仮に、藺相如の家来が賢くて藺相如の気持ちを見抜いていた、あるいは、馬鹿で何も感じなかったとしたら、「廉将軍は、秦王より強いか?」という名言が引き出されることは、なかったかもしれない。
そして、廉頗は、藺相如の気持ちに気づくことはなかっただろう。
ほどよい家来の絶妙なアシストが歴史を作った点は、見逃せない。
司馬遷は、藺相如を称賛している。
「強国の秦にあっては、大いに気を吐き、廉頗に対しては身をかがめることができたのは、主君に忠実なためであった」と。
「死ぬとわかっている者は必ず勇気を出す。死ぬことが難しいのではない。死に対処することが難しいのである。藺相如は気力を奮い起こして敵国に威勢を輝かせた。自国では廉頗に譲歩した。智と勇について、彼の態度は、ふたつを兼ね備えたと言うべきであった」と。