
「カンビュセスの籤」藤子・F・不二雄
「藤子不二雄SF全短篇第1巻 カンビュセスの籤」は35編を収録。
藤子・F・不二雄(藤子不二雄)のSF短編の中でも屈指の傑作「カンビュセスの籤(くじ)」「ミノタウロスの皿」の2編が収められている。
「カンビュセスの籤」は、「そこまでして生きるのか」というテーマを、「ミノタウロスの皿」は、「何のために生きるのか」というテーマを考えさせられる。
「カンビュセスの籤」
食料難に陥った人間が、生き延びるために仲間を食べる。
「アンデスの聖餐」と呼ばれる旅客機遭難事故時の実話があるほか、漫画家・手塚治虫が名作「火の鳥 望郷編」で扱い、テーマそのものに目新しさは乏しい。
しかし、「カンビュセスの籤」は、扱い方に、ものすごい深みがある。
特にラストが、せつなすぎる。
藤子漫画ファンにとどまらず、全人類必読の書だと思う。
紀元前6世紀のペルシャ王カンビュセスの遠征時に起きた悲劇から、物語を膨らませている。
主人公はペルシャ軍の兵士、サルク。
遠征中、食料難に陥ったペルシャ軍は、兵士が10人一組でくじを引き、当たった1人が残り9人に食べられるという事態に追い込まれる。
くじに当たったサルクは仲間を振り切って逃げだし、さまよううちに未来にタイムスリップして、エステルと出会う。


物語が進むにつれ、エステルが遠い未来の最後の地球人だと明らかになる。
核戦争で文明が滅亡後、シェルターに逃れて1万年の人工冬眠に入った二十数人が生き残る。
目覚めてみると、地上には草木一本なく、食糧難に襲われる。
1万年の人工冬眠を繰り返して時間を稼ぎつつ、地球外文明にSOSを送り、救援を待つ。
冬眠と冬眠の間の起きている間の食料は、食べられる人をくじ引きで選ぶ。
23万年もの間、これを繰り返してきて、ついにエステル1人となったところだった。
つまり、サルクは、ここでまた、くじ引きをする羽目になるのだ。
エステルは言う。
「あたしたちには生き延びる義務があるのよ。1人でいいの。1人生き延びれば、十分なの。クローン培養でコピーは無数につくれるわ。さらに遺伝情報の制御で進化の跡を逆にたどり、地球の生物の全種属を再生させることも可能なの。だから、一日でも長く生きる責任が・・・」と。
くじ引きの結果、食べられることになったのはエステル。
人間を原料とする「ミートキューブ」の作り方をサルクに説明するラストシーンが、とてもいい。
エステルは、おそらく、努めて、明るく振る舞っているのだ。
たった1人で孤独と戦い、生き延びるサルクのために。
このエステルの姿がせつなすぎる。

エステルは、物語の途中では、救援を悲観していた。
「今度もなしのつぶてに終わりそう」と。

ところが、サルクが生き延びることに決まると、楽観に転じる。
「これから1万年眠って、あなたが目覚めたら、今度こそ、きっと・・・そんな気がするの」と。

この物語が突きつける問いは、深い。
サルクの2度目のくじ引きは、1度目より遥かに深刻だ。
1人で生き延びても救援が来ないまま、孤独に餓死する可能性が高いからだ。
食べられるにしろ、1人で生き延びるにしろ、過酷なのだ。
地球上でたった1人のつらさは、「火の鳥 未来編」(手塚治虫)が描いた通り。
だからこそ、エステルの明るい態度が、心に染みる。
もし、くじ引きでなく、選べるのなら、どちらがいいだろうか。
私なら、わずかでもチャンスに賭けて、生き延びるほうを選ぶ、かな。
「ミノタウロスの皿」
映画「猿の惑星」(1968年、米国)みたいな設定。
人類に似た生物が「ウス」と呼ばれる家畜で、牛に似た生物が人類に相当する支配者というイノックス星が舞台となる。
主人公は、地球人の宇宙飛行士。
宇宙船のトラブルのため、イノックス星に不時着し、救援を待つ間、過ごす。
そこで、美少女ミノアと出会い、恋心を寄せるのだ。
一方、物語の序盤で、ミノアが選ばれた「ミノタウロスの皿」とは、大祭で食べられるという、ウスにとって、最も栄誉のある大役だった。

事情を知り、戸惑う主人公に、ミノアは言う。
「じゃ、地球では食べられないの? ただ、死ぬだけなんて・・・何のために生まれてきたのか、わからないじゃないの。あたしたちの死は、そんな無駄なもんじゃないわ。大勢の人の舌を楽しませるのよ」と。

主人公は、ミノアを必死に説得しようとする。
「すべての生物には生きようとする本能があって、これは絶対に消すことのできない・・・」と。

ミノアは、死の恐怖はもちろんあるけども、「大祭の栄誉を失うほうがもっともっと怖いわ」と言う。

主人公は、何とかしようと奔走するが、万策尽きる。
大祭が始まり、大皿に乗せられたミノアが主人公に声をかける。
「お皿の近くに座ってね。うんと食べなきゃ、いやよ」と。

物語は、救援が来て、主人公がステーキを食べながら、泣く場面で終わる。
物語の筋から言えば、主人公がミノアを食べる場面で終わるのが、ふさわしい。
何か理屈を付けて、食べないといけない状況に追い込むこともできたと思う。
さすがにそれは、生々しすぎると考え、ステーキの場面で代用したではないか。
この工夫も、素晴らしい。
だから、絵に描いてあるのはステーキだけど、主人公が食べているのは「ミノア」なのだ。

この物語が突きつける問いも、深い。
主人公の言うことも、ミノアの言うことも、含蓄が深い。
平凡であっても、ただ生きているだけであっても、「生きている」ということは、それ自体が素晴らしいことではないか。
これは、一理あると思う。
たとえ、死ぬことになっても、何かを成し遂げるという生き方こそが、「生きている」ということではないか。
これも、一理あると思う。
大きな問いだ。
私事だけども、余談をひとつ。
私は、生まれる前に死なされていた可能性があったらしい。
母は、父と結婚する前に、私を身ごもった。だから、父と母の結婚から半年くらいで私が生まれた(未熟児ではない。通常の妊娠期間を経ての出産で誕生)。
「できちゃった結婚」という言葉がある今と違い、当時の世の中では、恥ずかしいことだったようだ。
母方の祖母は、「世間体が悪いから、産むな」と出産に反対。母は「絶対に産む」と言い張って、私が生まれた。祖母にとって、生まれてみれば、可愛い孫。出産に反対したことを反省していたそうだ。
だから、私は母に対し、「生かしてくれて、ありがとう」という気持ちがある。
この世に生まれて、いろんな経験ができたことは、幸せだ。
「成し遂げる」というほどの大きなことはできそうにないが、意味のある生き方をしたいとは、思っている。
本作「藤子不二雄SF全短篇第1巻 カンビュセスの籤」は、藤子のまえがきのほか、巻末に筒井康隆の解説があり、どちらも興味深い。
藤子は「SFはアイデアが大事だ」として、映画など他の作品で似たアイデアを見つけた時の居心地の悪さを語っているのが、面白い。
筒井は、藤子のSF作品は多くの作家にとって、手本のような存在だと評価。「今や、SFのアイデアは出尽くした。見せ方がより問われる」という趣旨のことを述べていて、こちらも、面白い。

