
「ドゥエンデ」つのだじろう
フラメンコを題材にした珍しい漫画。
作者は、オカルト漫画の第一人者つのだじろう。
「恐怖新聞」「うしろの百太郎」といったオカルト作品で知られるほか、私が大好きな大山倍達の伝記漫画「空手バカ一代」(原作・梶原一騎)の作画を手がけた。
その作者らしく、短編「ドゥエンデ」は、オカルト作品だ。
「つのだじろうオカルト自選集2 ドゥエンデ」に収録されているのを読んだ。
本作によると、ドゥエンデとは、スペインの妖怪で、フラメンコの世界では「大地の魂」だとされる。
一流の歌い手や踊り手が芸に打ち込んだ時、ドゥエンデは足の裏から体内に上り、その人に乗り移る。
そして、神がかり的な歌や踊りで聴く者、見る者を感動させるという。
物語は、主人公で、野心的なフラメンコダンサーのロシオ栗林が、スペインで、マント姿の不気味な一団と出会い、神がかりのような技量を身に付ける。その一団は、死霊「グエスティア」だった───という内容。
作者は、こう解説している。
「私的に見れば、画質、ストーリー展開、取材の奥行きの深さ、作品の完成度、読後感等すべての意味を含めて、この短編が過去に描いてきたすべてのオカルト作品の中で、最も自信の持てる一番好きな作品」だと。
作者が、フラメンコ大好きだということも、この解説で初めて知った。
フラメンコギター奏者パコ・デ・ルシアは、幼少の頃からの猛練習で超絶技巧を身に付け、天才少年として注目された。
(このあたりは、メタル界最速のギター奏者イングヴェイ・マルムスティーンと似ているかもしれない)。
努力型のパコは、感性のままに歌って人を惹きつけられる天才型のフラメンコ歌手カマロン・デ・ラ・イスラと出会い、「技術だけでは、人を感動させられない」と気づく。
そして、チック・コリア、ジョン・マクラフリン、アル・ディ・メオラといったジャズ畑の音楽家と共演を重ね、感性のままの即興演奏を追求するのだ。
本作で言うドゥエンデは、パコが追い求めた境地だったのかもしれない。
ロシオは、スペインに来て、ドゥエンデの存在を知り、恋焦がれる。
「ドゥエンデの乗り移った踊り、一生に一度でいいから、踊ってみたい」
「ドゥエンデ! あたしが探しに来たものは、それなんだわ! それができたら、あたしは死んだって、いいわ」
「ドゥエンデさん、もし、あたしに乗り移ってくださるなら、あたし、命を捧げます」と。
この時点で死亡フラグが立っている。

その後、不気味な一団の行列に付いて行き、踊りを教えてもらったというロシオは、見事な演技で仲間を驚かせる。
ロシオは「ドゥエンデがあたしに乗り移ったの!」と自慢げ。
その一団の様子を聞いた仲間は「グエスティアだ」と恐れる。グエスティアの行列に参加した者は、必ず死ぬ、と。
怒ったロシオは、あれはドゥエンデだったと証明するため、今夜、グエスティアがさまよい出るという墓場へ行って踊ると言いだす。
「あたしに取り憑いたのがグエスティアなら、あたしは死ぬわけよねっ!」と。

その夜、ロシオは、あの不気味な一団に囲まれて、墓場で踊った。
仲間たちは魔除けの円を描いた中に立ち、ロシオを見守った。
このヤマ場4ページのナレーションを抜粋する。
これほど、妖しく、美しい踊りを今まで見たことがなかった
この夜、踊りを見た人々は、みんな、そう言った
感動のあまり、自分の円から何度も飛び出しそうになり、危うく命を落とすところだった、とも口々に言った

夜が明けて、グエスティアが消え失せた時
ロシオの魂も一緒に消えた
人々が気づいた時、ロシオ栗林は生涯の願いを叶えて、死んでいた
過度の疲労による心臓マヒであった
(以上、抜粋)

この物語の結論は、「下手な踊り手が高望みをして、ドゥエンデの名を口にするから、グエスティアに利用され、命まで奪われた」というもの。
その証拠にロシオの亡骸のまわりには、グエスティアが残した人骨が散らばっていた、と。
たしかに、決してハッピーエンドではなく、バッドエンドなのだけども、ロシオの最期の踊りが本当に名演で、みんなを感動させたというのが、救いだし、興味深い。
ただ単に、「軽率な人間が落とし穴にはまる」という話でないところが、とてもいい。
子どもの頃に読んだアンデルセンの童話「赤い靴」を思い出す。
主人公の少女が、無彩色の服装でないといけない儀式に、赤い靴を履いて出席。その後、舞踏会に出たところ、赤い靴を履いた足が踊り続けて止まらなくなる話。
少女は、足を切り落としてもらう羽目になるのだったと思う。
これだと、「社会のルールはちゃんと守りましょう」という説教くさい話にしかならないが、本作「ドゥエンデ」は違う。
もっと、深い。
ロシオは、死霊に命を捧げたけども、おそらく末永く語り継がれるであろう名演を残したのだ。
だから、ロシオは満足だとか言うつもりはない。
芸術は狂気みたいなところもあるのかもしれないと考えさせられた。
今年のヒット映画「国宝」で、主人公の歌舞伎役者・喜久雄が芸の上達を願って悪魔に祈るシーンがあるのを思い出す。
喜久雄は歌舞伎一筋に打ち込んで、まわりの人たちを不幸にしながらも、最終的には、人間国宝にまで上り詰める。
人間国宝になった時のインタビューの場面を思い起こすと、喜久雄の顔は無表情で、死んでいたように思う。
ロシオのように命を落としてはいないけども、人としての心が死んだということなのかもしれない。


