
「アダムとイヴの日記」マーク・トウェイン
前半が「アダムの日記」、後半が「イヴの日記」。
それぞれの視点で、出会いから、すれ違いを経て、愛情が芽生える過程が描かれる。
マーク・トウェインの「アダムとイヴの日記」を読んだのは、大学時代だった。
とても、面白い。
久しぶりに読みたくなって探したら、行方不明だったので、買い直した。
長くなるけども、それぞれの日記の一部を抜粋してみる。
アダムの日記
・月曜日(日記の最初の記録)
長い髪をしたこの新しい生き物は全く邪魔だ。いつも、そこいらをうろつき回っては後をつけてくる。こういうことはどうも気に入らない。連れなんていうものには慣れていないからだ。ほかの動物たちと一緒にいてくれれば助かるのに。

・水曜日(3番目の記録)
小屋を建てて雨露をしのぐようにした。ところが、その小屋は自分だけで静かに使うわけにはいかなかった。あの新しい生き物が侵入してきたのだ。追い出そうとすると、あいつは穴から水を出した。物を見るあの穴ぼこからだ。そして、前足の甲でその水をぬぐい、大きな音を立てた。あいつが口をきかないでいてくれたら、いいと思う。しょっちゅう、ペチャクチャやっているからだ。

・最後の記録(最初の記録から12年ほど後)
今になってみると、私はイヴのことを初め、誤解していたようだ。エデンの園の外にあっても彼女と一緒に住むほうが、エデンの園の中で彼女なしに住むよりはいい。最初のうち、彼女は、やたらに口数の多いやつだと思っていた。しかし、今では、もし、その声を押し黙らせ、私の暮らしの中から消え去らせてしまったら、私は、きっと、後悔するだろうと思う。どうか、あのチェスナットに祝福のあらんことを。あのチェスナットこそ、私たちを互いに近づけ、この私に、彼女の心の優しさと彼女の精神の美しさを教えてくれたものなのだから!

イヴの日記
・土曜日(最初の記録)
あれは、男というものだと思う。男なんて、それまで見たこともなかったが、あの様子はどうも男のようだった。だから、きっと、あれの正体は男なのだと思う。
私は初めのうち、あれが怖かった。それで、こちらを向くたびに逃げ出していた。私を追いかけてくるように思えたからだ。しかし、気がついてみると、あれは自分のほうで逃げようとしていただけなのだということがわかった。そこで、それから後は、私もおどおどしなくなり、後をつけ始めるようになった。すると、あれは、イライラしだし、不機嫌になった。そのうちにとうとう、ひどくうるさがって、木に登ってしまった。私はずいぶんと長いこと、待っていた。が、そのうちに諦めて帰ってきた。

・日曜日(2番目の記録)
あれは、低級な趣味の持ち主だし、心も優しくはない。ゆうべも、薄明かりの中をあそこに行ってみると、いつの間にか、木から降りて、まだら模様の可愛い魚たちを捕えようとしていた。せっかく、池の中で遊んでいるのに、だ。そこで、私は仕方なく、あれに土くれを投げつけて、もう一度、木の上に追い上げ、魚たちをそっとしておくようにしてやった。あれには、心というものがないのだろうか? ああいう可愛い生き物に対して、少しも同情心がわかないのだろうか?

・木曜日(10日ほど後)
私の初めての悲しみ。きのう、彼は私を避けた。そして、私に話しかけてもらいたくないような様子をした。そんなことは信じられないことだった。何か、誤解があるのだと思った。なぜなら、私は彼と一緒にいることが大好きだし、彼の話を聞くのが大好きだったからだ。彼が私に冷たい気持ちを抱くようなことが、どうしてありうるのだろう? 私は何もしたわけではないのに。
夜が来ると、私は寂しさに耐えられなくなった。そこで、彼が建てた新しい小屋に行って、私がどんな悪いことをしたのか、そして、どのようにすれば、それを償い、彼の優しい気持ちを取り戻すことができるか、それを尋ねてみようとした。ところが、彼は、私を雨の中に追い出した。これが、私の最初の悲しみだったのだ。

・最後の記録(40年ほど後)
これは、私の願いでもあるし、切なる望みでもあるのだが、私たちは2人一緒にこの世を去ることができたらと思う。
でも、もし、2人のうち、どちらかが先に行かねばならぬのなら、どうか、私に行かせてほしい。なぜなら、彼は逞しく、私はかよわいからだ。私は、彼が私にとって必要なほどには必要でないからだ。彼のいない生活は、生活にはならないだろう。どうして、そんな生活に私が耐えてゆけよう?

イヴの墓の前で
(アダムの言葉。イヴの日記の後に添えてある)
たとえ、どこであろうと、彼女のいたところ、そこがエデンだった。

「アダムの日記」は、素っ気なくて短い。
「イヴの日記」は、1日分がやたら長い(抜粋したのは、ほんの一部)。いろんなものに興味を持ち、感動し、想像する。ものに名前を付けるのが得意。
「赤毛のアン」(L・M・モンゴメリ)の主人公アンを思い出させる。
本書「アダムとイヴの日記」の解説によると、作者は、旧約聖書のアダムに興味を持ち、1893年に「アダムの日記」が発表された。
「イヴの日記」は、1904年に作者の妻オリヴィアが亡くなった後に構想された。
最後のアダムの言葉は、作者が妻への思いを表したものだと考えられるという。
この作者のことだから、ユーモアや皮肉を利かせた作品として「アダムの日記」を書いたのだろう。
愛妻を失って、夫婦の愛情にあらためて目を向け、「イヴの日記」を書いたのではないか。
このふたつの作品が合わさることで、「アダムの日記」の面白さも増した。
思うに、夫婦とは、もともと、他人同士なのだから、すれ違いがあって当然だ。
そして、親とよりも長い期間、一緒に暮らすことが少なくない。
自分と違う考え方を受け入れ、自分にない発想に学び、時には補い合いながら、人として成長するというところが、夫婦関係の面白さだと思う。
私の場合、私と妻の性格は似ている面もあるけど、違う面が多いから、余計に思う。
妻は「なんで、この人と結婚したんだろう?って思うことがある」と言うから、いろいろと私に不満があると思う。
実際、ダメな夫だと思う。
あの時、もっと、こうすれば良かった、もっと妻を大事にすれば良かったというようなことを考えるようになったのは、10年くらい前からだ。
妻と出会って、私の人生は、確実に楽しくなった。
気づくのが遅かったけども、この感謝の気持ちを忘れたらいけない。
大学時代に本書「アダムとイヴの日記」を読んだ頃は、読み物として面白いなと思っただけだった。
アダムとイヴがそれぞれ、日記の最後の記録で書いていることが、今は身に染みる。
妻は情にもろく、私もある意味「情にもろい」と言えなくもない面がある。
妻は、他人の痛みをわが事として感じる鋭敏な同情心の持ち主。
鍼灸整骨院に勤めていた頃、患者が鍼を刺されるのを見るたび、自分が刺されているような気持ちになって身がすくみ、先生に渡す鍼を落としそうになっていたという。それがつらくて結局、その仕事を辞めている。
たとえば、「フランダースの犬」的な可哀想な内容のテレビ番組を見ると、ぼろぼろ涙をこぼすタイプ。
私は、他人の痛みは、あまり、わからない。
ただ、空想癖があるから、ふとしたことで、親子の愛情、夫婦の愛情みたいなことを自分の身に置き換えて想像させられ、親や妻の愛情を思い出して、涙が出るタイプ。
たとえば、自宅で散髪する時に使うケープ(切った髪の毛を受ける道具)のパッケージに、子どもがお母さんに散髪してもらっていて2人とも笑顔という写真があった。それを見て、急に悲しくなって涙が出たということがある。
イヴが言うように「2人同時に死ねないなら、私を先に」というのは、染みる。
私は、もちろん、そうだ。
妻は、、、今度、聞いてみるかな。


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