
「2泊3日のぶらり日本史あるき」河合敦
私は昔、「街道をゆく27因幡・伯耆のみち、檮原街道」を読んで、司馬遼太郎が嫌いになった。
この人は決めつけが多いと聞いたことがあるけど、こういうことかと思った。
私の故郷・鳥取市の鳥取城跡や江戸時代の鳥取藩の書き方が酷すぎる。
見たり聞いたりしたうえで酷評するのなら、まだしも、たいして知りもせずに勝手に決めつけている。
書き方はこうだ。
「三十二万石という大藩だったから、藩にやる気があれば、どういう善政も可能だった。しかし、やる気のなさは、骨髄にまで染み込んでいた」と。
ちなみに、因幡国、伯耆国を合わせた現在の鳥取県に相当するエリアが鳥取藩。
やる気のなさの根拠に挙げるのは、初期の藩主・池田光政が岡山藩から国替えで移ってきた時、わずか9歳だったこと。
「9才ではなすすべがなく、老臣たちが政治の基礎ごしらえをするしかなく、そういう基礎に、のちのちまで藩政に活力を与え続けるだけの電池が入らなかったのだろう。老臣たちの目は江戸(幕府)に向けられていて、領内を照り輝かせようという意欲には欠けていたように思える」と。
他の藩から移ってきた「よそ者」であることも根拠に挙げている。
「さらに不幸なことは、薩摩、長州、仙台と違い、彼らはよそ者だったことである。血縁も地縁もないこの地で、土地をよくしようという気は、少なくとも当初には見られなかった。少なくとも、という穏当な言い方をしたのは、筆者の言い逃れで、露骨に言えば、概して池田家のお侍さんたちは明治維新まで事なかれのみを貫いた」と。
鳥取城跡のことも、貶めている。
「私は城跡を見ることを好んでいる。しかし、わざわざ、鳥取城跡にゆく気がしないのは、どうも、江戸二百数十年、膨大な数の家臣団が、百姓の米を食ってきただけの痕跡を見て、明日から元気に生きましょうという気が起こりそうにないからである。まあ、敬意を表するだけでとどめておきましょう、と編集部の藤谷氏にも言った」と。
池田光政が国替えで鳥取藩主になった時、幼かったのは事実だ(国替えは、重要拠点の岡山の藩主が子どもだとまずいという幕府の判断)。
それにしても、その1点をもって、ずっと鳥取藩にやる気がなかったという論法は、あまりにも飛躍しすぎで、強引だと思う。
むしろ、光政が藩主だった時代に、鳥取の城下町が本格的に整備され、現在の鳥取市の中心市街地の基礎になっている。
なるべく簡単に補足説明すると・・・
鳥取市の中心市街地はもともと沼地。古代には水鳥を捕る役目の人たち「鳥取部(ととりべ)」がいた。これが「鳥取」の地名の由来。政治・経済の中心地は別のところにあった。
戦国時代に守りの固い山城・鳥取城に本拠地が移り、山の麓に小さな城下町ができた。
平穏な江戸時代になり、鳥取藩の中心地を便利な場所に移転することも検討された(今風に言えば、県庁所在地の移転)。
だけども、新たに都市を整備するとなると莫大な費用がかかるので、鳥取城の城下町を本格的に整えることになったというわけだ。
その後、姫路藩主を継いだ親戚の池田光仲が3歳と幼かったので、国替えとなり、光政に代わって鳥取藩主になった(重要拠点の姫路の藩主が子どもだとまずいとの判断)。
成長していた光政は岡山藩主に戻った。
以後、幕末まで光仲の系統が鳥取藩主を務めた。
歴代の鳥取藩主は、幼くて藩主になったり、若くで死んだりする人が多かったので、いわゆる名君は少ない。
また、池田家は外様大名ながら、徳川家と結びつきが強かった(光仲の祖母が、徳川家康の娘。だから、鳥取には家康を祭る鳥取東照宮がある)。
岡山や姫路ほど重要視はされていないにしても、鳥取も、当時の感覚だと、西国から京都を守る盾となる要衝で、だから、徳川家寄りの池田家が配置されたわけだ。
鳥取藩は幕府に信用されていた分、面倒な仕事も頼まれた(たとえば、幕末には大阪の沿岸警備をやらされた)。
藩の財政は決して豊かではなかった。
光仲は、質素倹約を奨励したことで知られ、鳥取のローカルフード「とうふちくわ」(魚肉に豆腐を混ぜて作った竹輪)は光仲が考案したとも言われる。
あと、「池田家は、よそ者だから、やる気がなかった」と言うけど、司馬が例示している長州藩の毛利家だって、もともとは広島だ。
鳥取藩は、「明治維新まで事なかれのみを貫いた」わけではない。
最後の藩主・池田慶徳は、幕末の動乱に対応して、藩の沿岸警備を強化した。
(なお、池田慶徳は、水戸藩徳川家から養子に入った。最後の将軍・徳川慶喜とは実の兄弟。ついでに言うと、最後の岡山藩主も水戸藩徳川家の生まれで、実の兄弟)。
領内で盛んだった「たたら製鉄」のノウハウを生かしつつ、西洋式の製鉄炉を作って大砲を製造し、各地に台場(砲台)を設けて据えた。
教育、人材育成にも力を入れた。
山陰地方は良質な砂鉄が採れ、たたら製鉄が盛んだった。
幕末には伯耆国(鳥取県中・西部)の技術者が薩摩藩や土佐藩に、石見国(島根県西部)の技術者が長州藩に、製鉄のノウハウを手ほどきしたと聞いたことがある。
新政府と幕府の戦いで、徳川家と近い鳥取藩と岡山藩が悩んだ末に新政府についたことも、新政府の勝利に大きく貢献したと聞く。
どう見ても、「事なかれのみを貫いた」ではないと思う。
(明治以降、なぜ、鳥取の存在感が薄くなったのかは、またの機会に書きたい)。
ちょっと歴史が好きなだけの素人の私でも、司馬の強引な誹謗中傷に、このくらいの反論はできる。
そもそも、なぜ、こんなことになったのだろうか。
事情を伝え聞いたことがある。
司馬は事前にリサーチをしてから現地に来たようだ。
リサーチに協力した地元の方は鳥取城跡や池田家に詳しくなかったので、あまりアピールしなかった。
そうしたら、あんな風に書かれてしまい、この方は心を痛めていたという。
つまり、知らない人に聞いておいて、売り込みがないから、価値がないものと、司馬は決めつけた可能性がある。
知っている人を探して聞くか、わからないことは触れないでおけば、よかったのに。
本当に元新聞記者かと言いたい。
それにしても、貶め方が強引で、しつこい。
何か他の意図があるのだろうか。
おそらく、意図的に鳥取藩を貶めたのだろうと想像する。
鳥取藩や鳥取城跡を貶める記述は「街道をゆく27因幡・伯耆のみち、檮原街道」の中の「亀井茲矩のこと」という章に出てくる。
亀井茲矩は鹿野城(鳥取市)の主となった戦国大名。非常に面白い人物で、私は大好き(またの機会に書きたい)。
この章は、序盤で「因幡、伯耆は良い大名に恵まれなかった」と書いて、鳥取藩を貶め、その後、茲矩を称賛するという展開。
つまり、茲矩を引き立てるために、わざと貶めたのだろう。
これが小説だったら、脚色ということで、まだ、わからないでもない。
しかし、「街道をゆく」は紀行文の体裁を取っていて、おそらく、読者はノンフィクションだと思って読んでいる。
だから、なおさら、タチが悪い。
この人は、小説で脚色を繰り返すうちに、事実と空想を区別するという感覚が麻痺したのかもしれない。
まるで「街道をゆく」のように、歴史作家・河合敦が各地を訪ねて歴史に触れるのが「2泊3日のぶらり日本史あるき」。
「京都の旅」「長岡の旅」「仙台の旅」「鳥取の旅」を紹介している。
この「鳥取の旅」は、鳥取県民のM氏の仲介で、鳥取市主催の「鳥取城フォーラム2024」で講演することになったという、鳥取訪問の経緯から始まる。
講演のテーマは、M氏と鳥取市の文化財担当者H氏の強い要望を受け「鳥取藩池田氏の歴史」。
M氏とH氏は「司馬遼太郎さんが貶めた鳥取藩池田氏の汚名をそそいでほしい」と頼んできたという。
私は、「街道をゆく27因幡・伯耆のみち、檮原街道」を読んで、同じように感じた方がいるのだなと思って、ちょっと、うれしかった。
なおかつ、著名な河合に、司馬への反論をリクエストしている。これは面白い。
「2泊3日ぶらり日本史あるき」では、「街道をゆく27因幡・伯耆のみち、檮原街道」の該当箇所を紹介したうえで、河合が鳥取藩や池田家の歴史を説き、反論している。
鳥取城跡(鳥取市)のほか、幕末の六尾反射炉跡(製鉄炉跡)や、由良台場跡(鳥取県北栄町にある)も訪ねている。
河合の率直な物言いに、私は好感を抱いた。
「司馬氏の鳥取藩に対する低い評価など県外人は知らないだろうし、鳥取県民もさして気にしていないはず。M氏とH氏は、いささか被害者意識が強すぎるのではないか、そう思っていた。ところが、『鳥取城フォーラム2024』の当日、私の認識が誤りであることがわかった」という。
講演の後のシンポジウムで、司会者が「街道をゆく27」の該当箇所を読み上げると、会場にどよめきのような嘆息があふれ始めた。
そして、司会者が「今回の河合さんのお話で、鳥取藩池田氏がやる気がないわけではなかったことが証明された」と、まとめた瞬間、会場から拍手が沸き起こったという。
河合は「ああ、司馬遼太郎という国民的歴史作家の言葉は、40年近くにわたって、鳥取の人々の心を傷つけ続けていたのだと、はっきりわかった」と書いている。
鳥取市民は、宣伝が下手だと言われる。
あらためて思うに、今回、司馬の「街道をゆく27」に河合の力を借りて反論したような行動は、どんどん、取っていかないといけない。
今回の反論は、「鳥取城フォーラム2024」を聴いた人と、「2泊3日ぶらり日本史あるき」を読んだ人にしかわからないのだけども、このように情報発信しないと人には伝わらないということを市民が再認識するきっかけになるといいと思う。
鳥取城跡、鳥取藩の歴史に限らず、鳥取の魅力がもっと発信されるようになるといい。


