
「名画は嘘をつく」木村泰司
私が一番好きな画家は、アルフォンス・ミュシャだ。
画家というより、グラフィックデザイナーと言ったほうがいいだろう。
ポスター、カレンダー、お菓子のパッケージといった商業デザインを数多く手がけた。
装飾性が高く、曲線を巧みに生かし、躍動的な構図の素晴らしさもさることながら、その生きざまに惹かれる。
後進のために「装飾資料集」「装飾人物集」「装飾図案集」といった参考書を作って、惜しげもなく、手の内を明かした。
郷土愛が強く、祖国チェコの紙幣や切手のデザインを無償で手がけたとも聞く。
美術品として展示するために描いた作品は晩年の「スラヴ叙事詩」くらいではないだろうか。
この「スラヴ叙事詩」にしても、同郷の作曲家スメタナの交響曲「わが祖国」に感動して、同胞スラヴ民族の意識高揚のために描き、祖国の首都プラハ市に寄贈したとされる。
ミュシャは、芸術家というより、職人気質の人だったのではないかと想像する。
そして、伝統的な西洋美術の価値観では、ミュシャは、芸術家とは見なされなかったのだろうと思う。
西洋美術史家・木村泰司の「名画は嘘をつく」は、西洋美術を味わうための基礎知識を説く。
レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」、ヨハネス・フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」といった著名な作品を例示しているので、名画ガイドとして読んでも楽しい。
前書き「はじめに」で、日本の美術と対比させながら「感性に訴える日本美術、知性に訴える西洋美術」と、特徴を説いているのが面白い。
「はじめに」から抜粋して以下に引用してみる。
歴史的および社会的な要素が造形的に表現されているのが西洋美術です。描かれている作品世界を「見る」だけでなく、「読む」ことによって、目からうろこが落ちるように鮮明に絵画鑑賞ができるようになります。感性だけで鑑賞することは非常にもったいないのです。
私が感性だけだともったいないと考える背景には、西洋美術と日本美術の大きな違いがあります。ルネサンス以降、ヨーロッパでは職人ではなく芸術家という地位が確立していきます。さらに、感覚ではなく知性に訴えるのを「よし」とする伝統も確立していったのです。
したがって、日本人が好きな「感性」に訴えること自体を低く見なす古典主義が権威を振るう結果となりました。知性に訴えない工芸品は、芸術品より格の低いものと見なされるようになったのです。
この点が日本美術との違いです。なぜならば、日本は襖や屏風といった装飾品を芸術品と見なし、芸術家と職人の社会的な区別も確立しませんでした。それに対してヨーロッパでは、つい100年前までは装飾的なものイコール、工芸品として低い扱いを受けていたのです。
ちなみに、装飾的な絵画が「芸術品」とヨーロッパでも受け入れられるようになったのは、ジャポニスムの台頭で日本美術に開眼した革新的な画家たちのおかげでした。
(以上、抜粋)
ここで言う「ジャポニスムの台頭で日本美術に開眼した革新的な画家たち」の1人が、「アールヌーボーの旗手」とも言われるミュシャだろう。
アールヌーボーは19世紀末から20世紀初めにかけてフランスを中心に盛んになった芸術様式。
浮世絵等、日本の美術の影響を受け、植物や昆虫を題材に取り入れ、装飾性が高いのが特徴。ミュシャのほかに、ガラス工芸家エミール・ガレが代表的な作家だろうか。
<脱線・民芸運動>
話がそれるけど・・・
同じような頃の20世紀初めに、日本では「民芸運動」が起きている。
食器や家具といった工芸品で、無名の職人の実用的で美しい手仕事に光を当てる運動。
芸術評論家の柳宗悦、陶芸家の河井寛次郎(島根県出身)らが主導した。
私の故郷・鳥取市でも吉田璋也が民芸運動に呼応した。
璋也が1932年に開いた「鳥取たくみ工芸店」は日本最古の民芸専門店だとされる。
日本民藝協会のホームページによると、当時、日本の工芸界は華美な装飾を施した鑑賞用の作品が主流だったという。
本書「名画は嘘をつく」の著者が説く「芸術家と職人の社会的な区別」が日本でもこの頃にはあったということだろうか。
民芸運動と対極にいるとみられる、北大路魯山人が手がけた食器を見たことがある。
本当に鑑賞用の芸術品という感じ。
私は素直に美しいと思った。
特に、アワビをかたどって、エビやカニが描いてある食器は欲しいなと思った。
一方で、民芸運動が唱える素朴な美しさも、わかる気がする。
たとえば、璋也が指導したとされる牛ノ戸焼(鳥取市)の「染め分け」の食器は、いい感じの緑色を黒が引き立てて、素直に美しいと思う。
(脱線終わり)
本書「名画は嘘をつく」の紹介を読んで印象に残った作品は、ミケランジェロ・ブオナローティの「アダムの創造」。
寝そべって上半身を起こして手を伸ばすアダムに、神が手を伸ばし、指先から「命」を注入しようとしている瞬間を描いた名画。

映画「E.T.」のポスターはここからヒントを得ていると思うし、私が好きな映画「ベン・ハー」にも、「2012」にも登場する名画。
聖書の記述では、神は、土のちりでアダムを形作り、鼻から命を吹き込んだという。
上半身を起こしたアダムに、指先から注入することにしたミケランジェロのアイデアは素晴らしい。
死体のように横たわったアダムに、鼻から吹き込むのだと、絵的に美しくないという判断も、もちろん、あったのだろうけど・・・
そのことよりも、生きて上半身を起こしているアダムに「命」を注入するというアイデアが素晴らしいと、私は思う。
人間の価値をより高める素敵な描写だと思う。
この名画で神がアダムに注入する「命」は、単なる「生命の源」ではないだろう。
だって、アダムは既に動いている。
そのアダムに、神が注入しようとしているのは、「ほかの動物より高次な命」なのだと想像させられる。
「ほかの動物より高次な命」とは何か。
「ほかの動物より高い知性を備えた命」ということだろう。
そう考えると、のちにアダムとイヴが「知恵の木の実」を食べて身に付けた「知恵」の意味にも、さらに想像が膨らむ。
これは、単に、無知な人間が賢くなったみたいなことではなくなる。
だって、知性はもう注入されているわけだから。
それに、2人は、ほかの動物に名前を付けるといった知的な活動を、「知恵の木の実」を食べる前から、している。
「知恵の木の実」を食べて、2人は、どう変わったのか。
神に言われる通りに行動してきたのが、自分で考えて生きるようになり、自立したということかと、思えてくる。
そう考えると、アダムとイヴが「知恵の木の実」を食べて、永遠の命を失い、楽園を追われた「失楽園」の逸話は、「子どもから大人になること」を象徴しているようにも、思えてくる。
永遠の命を失ったのは、自立に伴うリスクの象徴。大変な目に遭うこともあるかもしれないけど、それは自己責任でやってくれ、ということかなと思う。
ミケランジェロが聞いたら「おい、違うって。勝手に話を盛るなよ」と言うかもしれない。
そうだとしても、1枚の絵で、ここまで想像力を刺激するミケランジェロ、たいした芸術家だと、あらためて思う。


