
「赤龍王」本宮ひろ志
古代中国の漢を建国して天下人となった劉邦と、その敵・項羽(西楚の覇王)の愛人として死をともにする虞美人の悲恋というオリジナルストーリーをつむぐ傑作漫画。
それが本宮ひろ志の「赤龍王」だ。
虞美人は、歴史では、絶世の美女で、項羽の愛人。
劉邦と項羽の最終決戦「垓下の戦い」で、必敗を悟った項羽の足手まといになるまいと、自害する悲劇で知られる。
「赤龍王」は、この虞美人(この物語では虞小絹という名前)が、項羽と出会う前に、庶民だった頃の劉邦と出会い、愛し合う仲になっていたという設定が素晴らしい。
虞美人は、劉邦の目の前で二度、敵に連れ去られる。
助けを求めても、腰が引けて抵抗しない劉邦にその都度、失望する。
しまいには、冷たい態度を取るようにもなる。
しかし、内心では、最後まで劉邦を好きだったのではないか。
劉邦は、何度も虞美人を取り返そうとするものの、彼女の心の傷には、最後まで気づかなかった。
この2人の「すれ違いの悲恋」がせつない。
この物語では描かれていないけども、虞美人の死を知った劉邦は号泣したに違いない。
そして、その姿を見た劉邦の妻・呂雉(呂后)が猛烈な嫉妬心を抱いただろう。
それが、劉邦死後の事件「呂氏の専横」(劉邦の愛人やその子らを殺し、自分の一族で権力を握る)につながったのではないかと、妄想が膨らむ。
ストーリーを追いながら、さらに詳しく、説いてみる。
「赤龍王」では、虞美人は、幼い頃から美貌を見込まれ、秦の始皇帝の後宮「阿房宮」に入るために育てられたという設定。
いよいよ、阿房宮に送られる時に逃げ出し、劉邦の父に命を救われ、劉邦と出会う。
劉邦は、一目惚れ。
「おれは、この娘と一緒になれるんなら、何も望まねえで百姓をやる」と言って、それまでの無頼な生き方を改める。
虞美人も、心の優しい劉邦を好きになる。
2人のやり取りを以下に抜粋してみる。
虞美人
優しい、思いやりのある人のもとへ嫁いで、その人と2人で土に働き、作物を実らせることが・・・可愛い子をたくさん産み、その人とその人との子どもたちと春と夏と秋を感じながら生きることが・・・虞の一生の夢でした。
その夢が今、叶い、その夢に思っていた男の人があなたであることが、私は涙が出てくるほど、幸せです。
劉邦さま、はなさないで。私をどこにもやらないで。一生、あなたのそばに置いてください。
劉邦
はなすもんか。おまえはおれの女だ。おれだけの女だ。
(以上、抜粋)

そして、「連れ去られ、その1」が発生。
始皇帝の手下に見つかり、虞美人は連れ去られる。
虞美人は、泣き叫んで、劉邦に助けを求める。
「嫌です。私は行きたくない。劉邦さま、私をどこへもやらないでください」
「劉邦さま、あなたはおっしゃったではありませんか。虞はおれの女だ、どこにもやらぬ、一生、おれのそばで暮らせ、と」
「虞は、あなたのそばで暮らしたい。どこにもやらないで。助けてください。劉邦さまァー」
・・・と。
劉邦は、抵抗せずに見送る。

庶民が始皇帝の手下に抵抗したところで一家皆殺しになるだけだという冷静な判断。
あとで、虞美人が使った布団の残り香をかいで泣く。
この「連れ去られ、その1」は、本当に抵抗のしようがなかった。
賢い虞美人にはわかっただろうから、ここまでは、まだ許容範囲だった。
その後、始皇帝死去、全国各地で秦に反乱の動き等、いろいろとあって、劉邦は、秦の首都・咸陽がある関中に一番乗り。
虞美人を探して阿房宮に入り、「再会その1」が発生。
劉邦は再会を喜び、涙を流す。
「生きていたか。生きていてくれたか、虞よぉーっ。会いたかった、会いたかったぞォー」と。
虞美人は微妙な表情。
「その前に言うことがないの? あの時はごめんよ、とか」という気持ちだったと思う。
劉邦は、「わかってなさ」を露呈する。
「おれは、おまえさえ、そばにいてくれたら、百姓として一生終えることに何の不満もなかった。しかし、こうして咸陽を制圧し、関中王として、この大地を押さえた今、おれは、おまえのために何でもしてやれる。金銀宝石で飾り、この阿房宮をおまえの屋敷とし、関中の民は、すべて、おまえの民だ」と。
漫画「北斗の拳」(原作・武論尊、作画・原哲夫)のシンを思い出させるセリフだ。


虞美人は、「北斗の拳」のユリアのように高所から身を投げたりはしないけども、寂しそうな顔をする。
「あの時に傷ついた私の心がわからないの?」という気持ちだっただろう。
鈍感な劉邦は、さらに「わかってなさ」を露呈する。
「ど、どうした虞よ。なぜ、そのような目をする。おまえには、このわしの熱い思いが伝わらぬのか」と。
そして、「連れ去られ、その2」が発生。
項羽が来て、すべて奪われる。虞美人も。
項羽は、劉邦が虞美人に惚れていると気づいて、挑発する。
「この項羽、生まれて初めて女に心を奪われた。劉邦、ほしくば、剣を取れ。力で奪ってみィー」と。

「かかってこい、劉邦。この女が大事なら、おれから奪えいっ」とも言われる。
唇を噛み、剣に手をかける劉邦。
けど、結局、剣から手を引く。
それを見て、ガッカリした表情の虞美人。

天下無双の武人である項羽と戦って勝てるわけがないという冷静な判断だ。
虞美人は涙を流して、訴える。
「劉邦さま。あなたは、あなたは、また、私を守ってくださらぬのですか」と。

この局面は「連れ去られ、その1」と違い、劉邦に打つ手があった、と私は考える。
剣を捨て、ヨロイを脱いで、項羽にぶつかり「拳と拳の戦い」を挑むという奇策だ。
項羽は、天下無双の武人の自負があり、プライドが高い。
素手で向かってきた相手を、サックリと剣で斬るような真似ができるわけがない。
きっと、拳で応じる。
劉邦は、ボコボコにされるだろうけども、死ぬことはないだろう。
虞美人が劉邦に求めていたのは、ここぞという時の必死さ。
ボコボコにされても、立ち上がろうとする劉邦の姿は、虞美人に「必死に、私を守ろうとしてくれている」と感じさせるだろう。
劉邦は、ついに立ち上がれなくなり、結局、虞美人は、項羽に連れ去られるのだろうけども、心の傷は癒やされる。
その後の「再会その2」で、虞美人は、あんな頑な態度にならなかったはずだ。
つまり、「連れ去られ、その2」は、劉邦にとって、挽回のチャンスでもあった。
虞美人の身は連れ去られても、心は取り戻せたはずだ。
このチャンスを生かせなかったのが、悔やまれる。
「再会その2」は、劉邦が、項羽の留守中に本拠地を攻めて発生。
劉邦は再会を喜んで、虞美人に抱きつく。
2人のやり取りを以下に抜粋してみる。
劉邦
虞よォー。会いたかった、会いたかったぞォー。よくぞ、よくぞ、生きていてくれた。虞よォー
虞美人
舌を噛み切ります
劉邦
なっ
虞美人
私に手を触れたら、私は舌を噛み切って死にます
劉邦
何ィー
虞美人
私は項羽の妻

劉邦
虞っ
虞美人
あなたの敵王の妻です。どうか、そのように処分してくださいませ
劉邦
惚れたのか。殺されてもいいというほど、項羽に惚れたのかあっ
虞美人
はい
(以上、抜粋)

この「再会その2」は、劉邦にとって、最後のチャンスだった。
虞美人の「舌を噛み切ります」は、ハッタリだと、私は想像する。
この言葉は、項羽への愛ではない。
また、腰が引けるのか、劉邦を試したのだ。
この場面、劉邦をさえぎる敵はいない。
劉邦と虞美人の2人だけ。
この場面は、虞美人が仕掛けた「心理戦」だったのだ。
劉邦は、構わず、虞美人を強く抱きしめるべきだった。
「そんなこと、させるか。おまえはおれの女だ」と叫んで。
ところが、この場面で、劉邦は最悪の手を打つ。
「惚れたのか。殺されてもいいというほど、項羽に惚れたのかあっ」という的外れなセリフが、そうだ。
このセリフは、虞美人が劉邦に失望していることをわかっていないだけでない。
「心変わりしたのか」と虞美人を責めている。
虞美人の心の傷を癒やすどころか、傷に塩を塗り込む痛恨の一撃。
再会直後の虞美人の表情と見比べてほしい。
「はい」と答えた虞美人は、深い絶望の淵にいることがわかるはずだ。
そして、物語の終盤。
故事にもなった「四面楚歌」の状況に追い込まれた項羽は、必敗を覚悟する。
項羽は「劉邦は今でも、おまえを好いている。虞の命まで奪うことはあるまい。生き延びるのじゃ」と提案するけど・・・
虞美人は、「項羽と出会えて良かった」旨、説いて、自害を選ぶ。
虞美人の最後のセリフは「ああっ、項羽さま。虞は、虞は、幸せでございました」。
涙を流している。

虞美人は、一緒に過ごすうちに項羽に情がわいただろうけども・・・
最後まで、劉邦が好きだったと思う。
虞美人の最後の涙は、項羽に向けたものではないだろう。
劉邦との悲恋に心を痛めての涙だと想像する。
物語冒頭、劉邦との生活の幸せの涙と見比べて見てほしい。
「虞は、虞は、幸せでございました」というセリフの裏の心情を考えると、あまりにもせつない。
この物語「赤龍王」は、項羽の死の場面で終わる。
描かれてはいないけども、劉邦が虞美人の死をどう受け止めたかの場面もあると、なお、良かった。
劉邦は、虞美人の遺体を見つけて、号泣しただろう。
虞美人の乾いた涙の跡を見て、自分の鈍感さに気づいただろうか。
いや、気づかなかっただろう。
その姿が描かれていたら、「すれ違いの悲恋」の深みが増したと思う。
さらに、欲を言えば・・・
虞美人の遺体を抱いて泣く劉邦を、冷たい目で見つめる呂雉の姿も描いてほしかった。
呂雉は、虞美人が「連れ去り、その1」でいなくなった後、劉邦の妻となった。
嫉妬深い人物として描かれている。
たとえば、劉邦のもとに嫁いできた日、ほかの女性の存在をすぐさま察知する。
「女のにおいがする。この部屋には女のにおいが残っています。私が来る前、誰か女の人が住んでいたのですか」と。

劉邦に抱かれた後、さらに言う。
「私があなたのところに来る前、何があったのか、何も聞きません。しかし、今、私とあなたの血はひとつになったのです。これからは私以外の女を求めることは絶対に許しません」と。

「再会その2」の後、しばらく劉邦のもとにいた虞美人を見つけると、怒り狂う。
「同じじゃ。同じにおいじゃ。私が初めて劉邦のもとへ嫁に行き、あの部屋でかいだにおいと、あの部屋に残っていたにおいと同じ・・・この顔か、この体か、あの部屋でわが夫・劉邦にまとわりついていたのは。あさましい、あさましい」と。
そして、虞美人を殺そうとする。

駆けつけた劉邦の家来・曹参が、「虞美人は、項羽の妻で、大事な人質」である旨、説明して、思いとどまらせる。
呂雉は、それで納得。
「なるほど、これがそうか。始皇帝に抱かれるために作られ、始皇帝の子、二世皇帝・胡亥のオモチャになり、その後、次々と時の権力者に抱かれ続けた女というのは。そして、今は項羽のものか。ふっふふ。そのような汚らわしい女なら、何も私が自ら手を下すことはないか。汚らわしい、汚らわしい、あっははは」と言って。
このような性格の呂雉が、虞美人の遺体を抱いて泣く劉邦を見たら、猛烈な嫉妬心と敗北感を抱いたことだろう。
「劉邦の心は、ずっと、この女に向けられていたのか。しかも、この女は死んでしまって、劉邦にとって、永遠の女になった。私は一生、勝てない」と。
歴史に残る「呂氏の専横」は、劉邦の死後、呂雉が、劉邦の愛人やその子どもたちを殺し、自らの一族・呂氏を要職に就けて権力を握った事件。
自分と劉邦との間の子どもと、劉邦と愛人・戚夫人との子どもの後継争いが原因で、自分の子どもを守るためにやったことだと考えられている。
戚夫人を残酷な方法で死に至らしめた逸話も知られる。
しかし、真の動機は、何だったのか。
虞美人を失った劉邦が、焼けくそで次々と愛人を作るうち、虞美人にそっくりの戚夫人に出会って溺愛した・・・とか、想像すると、この歴史的事件のドラマも膨らみそうだ。
