「アバター」
戦争で負傷して下半身不随となった主人公が、ここでは勇者として大地を駆け、翼竜にまたがって大空を翔ける。
SF映画「アバター」(2009年、米国)は、現実と夢の世界を行き来するかのような設定が面白い。
テレビゲームやシミュレーションとは違い、そこには分身のアバターを通じて、実体験できる、もうひとつの現実があった。
まず、舞台となる異星パンドラの景色が素晴らしい。
私が大好きな英国のイラストレーター、ロジャー・ディーンの世界だ。
空に浮く岩塊といい、湾曲した岩といい。
ついでに言うと、ディーンの世界には翼竜も登場する。
そして、映像が素晴らしい。
「アバター」の主人公ジェイクたちが翼竜に乗って、こうした景色の中を飛ぶシーンは、見ている私がディーンの世界に入り込んだような気持ちになれて、感動した。
残念なことに、「アバター」の監督ジェームズ・キャメロンは、ディーンの影響を認めていないらしい。
どう見ても、ディーンの世界だと思うけど、裁判でディーンが敗訴したのが不思議だ。
「アバター」の主人公ジェイクがなぜ、パンドラの住民ナヴィとして生きる道を選んだか。
最初のきっかけは、再び自分の脚で走れる喜びだった。
パンドラのレアメタルがほしい地球人はナヴィとコミュニケーションを取るため、ナヴィと地球人のDNAを掛け合わせ、ナヴィの姿に似せた人造生命体アバターを作った。
アバターは、地球人の意識を乗り移らせて操作する。
一卵性双生児で、アバター操作員の兄が急死したため、同じDNAを持つジェイクが代わりの操作員に抜擢されたのだ。
初めてアバターに乗り移ったジェイクは、うれしそうに駆け回る。
そして、密林に深入りしてピンチに陥り、ナヴィの女性ネイティリに助けられる。
もともと海兵隊員だったジェイクは、やがて、ナヴィたちに戦士として受け入れられる。
ジェイクも自然と調和して生きるナヴィに惹かれ、ネイティリと恋仲になるのだった。
ジェイクは、いわば、祖国のために戦って負傷した英雄だ。
なのに、パンドラに来ても、地球側の軍人クオリッチのコマ扱い。
従えば、脚を治してやるというクオリッチの申し出に感じた魅力は、薄れていったに違いない。
もっと大切な、個人の尊厳が、ナヴィとの暮らしでは得られたからだ。
クオリッチらがナヴィの村を焼き払う強硬手段に出ると、ジェイクとネイティリたちナヴィの間には溝ができてしまう。
事態を打開しようと、賭けに出たジェイクには、既に、ナヴィとして生きていこうという決意があったはずだ。
賭けとは、巨大な翼竜トゥルークを手なずけて、ナヴィの伝説の英雄トゥルーク・マクトになること。
死の危険を冒して、トゥルークに飛び乗り、手なずけるシーンが見どころだ。
最後に、パンドラの神というか、神秘的な生命ネットワーク「エイワ」の力で、ジェイクはアバターに半永久的に意識を移して復活。
ずっと、アバターの姿で、ナヴィの一員として生きることになる。
主人公の再生を描いたこの作品を象徴する締めくくりだ。
アバターに意識を移したジェイクが目覚めるところで終わる、ラストシーンも爽やか。
第2作「アバター ウェイ・オブ・ザ・ウォーター」(2022年)も見に行った。
映像は、第1作同様に、素晴らしい。
ストーリーは、深みがなくなった。
単なる「自然大事に」の物語になった。
クジラに似た知的な生物が出てきて、反捕鯨的なニオイが漂うのも気になった。
第1作は映画館で見た後、DVDを買って時々、見ているけど、第2作は、一度見たら、もういいかなという感じだ。
今年12月に公開される第3作「アバター ファイヤー・アンド・アッシュ」も見に行くとは思う。

