「テラビシアにかける橋」
「Bridge To Terabithia」
(ネタバレあり。見ていない方は、ご注意を)
主人公の内気な少年が、美人で活発な転入生の少女と、森を「空想の王国」に見立てて毎日、一緒に過ごす。
これは、うらやましい。
隠れ家を作って遊んだ子どもの頃を思い出させる物語だ。
しかし、悲劇が2人を襲う。
映画「テラビシアにかける橋」(2007年、米国)は、せつなくて、ほろ苦い。
原作は、キャサリン・パターソンの同名の児童文学。
ラストは好みが分かれるかもしれない。
私は嫌い。
そこまでは、とても面白いのに、これはないだろう、と思う。
主人公は、小学生とみられる少年、ジェス。
内気で、空想にふけり、ファンタジー的な絵を描くのが好き。家が貧乏なため、学校では、からかわれている。
父親は、ジェスの幼い妹メイベルには甘いが、ジェスには厳しい。
畑を荒らす動物を捕らえるために父親が仕掛けたワナに小動物がかかっていて、ジェスが可哀想に思って逃がすと、父親は「現実を見ろ。お前の漫画とは違うんだ」と叱る。
想像力や感性が豊かで自由奔放、活発な美少女、レスリーが転校してきて、物語が転がり始める。
レスリーは、クラスでは変わり者扱いされるが、ジェスとは親しくなる。
ちなみに、レスリー役の俳優アナソフィア・ロブは、映画「チャーリーとチョコレート工場」(ジョニー・デップが出るほう)で、風船ガムの生意気な少女を演じている。
「テラビシアにかける橋」では、主人公より断然、光っている。素晴らしい。
ジェスとレスリーが森に出かけると、森の入り口には川があり、ロープが吊るしてある(ターザンロープのように、ぶら下がって、向こうに渡る仕組み)。
レスリーは「2人だけの場所がほしい。魔法の王国があったら?」と提案。
「王国に入る方法は、この魔法のロープだけ」と言って、向こうに渡る。
ジェスもついて行く。
森に入ると、レスリーの想像力はますます冴える。
やり取りを少し抜粋してみる。
(森にあった廃車に金具がぶら下がっていて、揺れて音を立てると・・・)
ジェス 今の音、何?
レスリー 鎖を付けた囚人の足音だよ
ジェス 囚人?
レスリー ダークマスターに捕まったの
(大木の上に廃屋を見つけて上る。すると、トンボが飛んでくる・・・)
レスリー 戦士だ
ジェス これは、ただのトンボだろ
レスリー 戦士たちだよ。森の天上から来た
ジェス どういうゲームなの?
レスリー ゲームじゃない。これ、マジよ。ここは頑丈な砦だったの。囚人たちのね。私たちは、彼らを助けに来た。ダークマスターの囚人たち! 聞こえる? あなたたちを助けに来た。聞こえてたら、答えて!
(風の音が応え、2人は、ほほ笑む)
(2人は高い木の上に登って周囲を見渡す・・・)
レスリー 見て。2人の王国。山もそうだし、海もそう
ジェス 山と海だって?
(森と平原が見えるだけ)
レスリー 見えるよ。目を閉じて。でも、心は開いて。
(山や海が見えてくる)
ジェス 王国の名前は?
レスリー テラビシア
(以上、抜粋)
「心を開いて」というセリフが素晴らしい。
2人は毎日のようにテラビシアに出かけ、「テラビシアの王と王女」となって、空想を膨らませて楽しむ。
レスリーには、とても親しみを感じる。
私も、子どもの頃から空想癖があり、物語を考えるのが好きだった。
以前、ブログ記事で書いたことがあるけど、、、
小学1年の頃は、友人A君とお互いに続き物の物語をノートに少しずつ書いて、交換して見せ合っていた。
小学2~3年の頃は、藤子・F・不二雄の名作「ドラえもん」に感動して、友人B君と一緒に漫画を描くのに熱中。
小学4年の頃は、ドリフターズの影響をもろに受け、友人C君とコントに熱中。クラスのお楽しみ会で披露していた。
小学5~6年の頃は、友人D君に、物語を語って聞かせるようになった。D君が物語の主人公になり、さまざまな場面で行動を選択する。それに応じて、私が状況の変化を即興で考えて、物語を展開していく。ごっこ遊びの延長で、もう少しかっこよく言うと、テーブルトークRPGのゲームマスターみたいなことを私はしていたわけだ。
中学生になって、テーブルトークRPGの元祖「ダンジョンズ&ドラゴンズ(D&D)」を知った時は、これだ!と思ったものだ。
(振り返ってみると、何ごとも長続きせず、その都度、親しい友人が変わっている点に、私の性格がよく表れているとも思う)。
「テラビシアにかける橋」の悲劇は、レスリーが死んでしまうことだ。
川を渡るロープが切れて転落し、頭を強打してしまうのだ。
しかも、ジェスが憧れの美女教師に誘われて、美術館に行き、いつもレスリーと落ち合う森に行かなかった日に。
ジェスは激しいショックを受けて、部屋に引きこもる。
レスリーが、ジェスのスケッチブックにこっそり描いていたレスリーの似顔絵が見つかり、悲しみを倍増させる。
ジェスは1人で森に行き、レスリーの名前を呼ぶが、返事はない。
追いかけてきた父親がジェスを抱きしめると、ジェスの悲しみが噴き出す。
やり取りを抜粋してみる。
ジェス 全部消えた(と言って、泣く)。ぼくは地獄行きだ。ぼくのせいだから
父親 そんなふうに考えるんじゃない
ジェス ぼくはレスリーを美術館に誘わなかった。レスリーを1人にした。ぼくのせいだ
父親 そんなことはない。つらいよな。やりきれないだろうが、おまえは何も悪くない。あの子はここで特別なものをくれたんだな。それは、ずっと、消えないよ。あの子はお前の中にいる
ジェスは、レスリーの似顔絵を手製の小さなイカダに乗せて川に流し、とむらう。
ここまでは、とても、いい。
ジェスが、橋を自作して川に架けるのも、まあ、いい。
もう誰も川に落ちないようにとの願いを込めたのだと考えれば、わかる。
私が違和感を覚えるのは、その後。
ジェスが妹のメイベルを森に連れて行き、「テラビシアのお姫様」として迎えることだ。
私なら、2人の思い出の場所に他人を招くなんて、絶対にやらない。
むしろ、ほかの人を近づけたくないから、橋は架けない。
光源氏のように、メイベルをレスリーの身代わりに、という意図ではないと思う。
ジェスが、悲しみを乗り越えて立ち直る姿を描きたかったのだとは思う。
それにしても、これはないだろう。
「テラビシア」の世界を小説にしてレスリーに捧げるとかで良かったのではないか。
<余談・弟も子どもの頃、つらい経験をした>
子どもにとって、身近な人、しかも同世代の友人の死がいかに衝撃か。
私にはそのような経験はないが、私の弟(3歳下)は経験している。
弟が小学校低学年の頃だったろうか。
弟は近所の友人(同級生の男の子)と、近くの川にザリガニ取りに行っていた。
その友人は突然、痙攣して倒れる発作があった。これは近所の人には、よく知られていた。
弟が両親に説明したところによると、友人はザリガニ取りの最中に発作が起きて川の中に倒れた。
弟はびっくりして走って家に帰り、母に報告。救急車が呼ばれる騒ぎになった。
その騒ぎの時。
この友人の父親が「すぐに引き上げてくれれば、よかったのに」と泣きながら言った。
弟がその場にいるのに。
大事な子どもさんを亡くされて、本当に気の毒だし、親の気持ちとして、そのよう考えるのは、よくわかる。
だけど、弟がいる場で言うか?と思った。
母は、小さな声で、「そんなことない」と言って、弟を抱きしめていた。
おそらく、弟は、深く傷ついたと思う。
本当は助けられたのに、自分のせいで、友人が死んでしまったのか、と。
私は、弟に、何もしてやれなかった。
ただ、弟にとって、触れられたくない出来事だろうと思い、家族の誰もその後、この友人のことは話題にしなかった。
弟は、私と違い、繊細な性格なので、きっと、長い間、この経験を引きずったことだろう。
いや、今でも、心の傷として残っているのかもしれない。
漫画「ミステリと言う勿れ」(田村由美)は、「子どもの頃の心の傷」を重視しているのが目を引く。
主人公の整(ととのう)が、たびたび、口にする。
「子どもって、乾く前のセメントみたいなもので、落とした物の形がそのまま残るんですよ」と。
これは、名言。
この作者が、なぜ、このようなことを発想するのか、興味深い。
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