「フロントライン」
マスコミは、正常、順調に運んでいる事柄よりも、そうでない事柄のほうがニュース性 が高いと考える傾向がある。
みんなの不利益になる可能性があるからだ。
ニュース性が高いというのは、はっきりと言えば、読者、視聴者の皆さんが読みたい、見たいであろうものだということ。
新型コロナウイルス禍の場合で言うと、まず、それは、身の危険に関すること。
新型コロナはどのくらい危険なのか。行政や医療関係者の対策は適切なのか。自分の身に危険が及ぶのか・・・といったことだったはずだ。
記者は、これらを伝えなきゃいけないという気持ちで動いている。
他人の不幸や失敗を面白がっているわけではない。
行政や医療の現場の苦労や悩みを伝えようという風に考えるのは、危険に関することがある程度わかって、気持ちが落ち着いてから。
私たち記者に限らず、みんなの心理だって、同じではないかと思う。
自分の身の危険に関わる情報よりも、現場の苦労や悩みが、まず知りたいだろうか。
この映画の主人公たち医療関係者が「感染を広げないことよりも、まず、必要な人に適切な医療を施すことが優先」と考えているのと同じだと思う。
記者は、記者の役目を果たそうとした。
マスコミにだって「フロントライン」はあった。
映画「フロントライン」(2025年)は、2020年2月に横浜港に入った客船ダイヤモンド・プリンセス号で国内初の新型コロナ集団感染が起き、対応に奮闘した災害派遣医療チーム(DMAT)の姿を描く。
そして、マスコミはDMATの対応を批判し、足を引っ張った悪役として描かれる。
登場するテレビ記者・上野は、対応の不手際を探し、騒ぎを面白がる悪意のある人物として描かれる。
「面白くなりそうですよ」と、意地悪そうにニヤリと笑う場面があったりする。
主人公のDMAT指揮官・結城に「都合のいいところだけ、切り取られるから、インタビューには応じません。それに、あなた、面白がっていませんか」と言われ、へこむ。
そして、改心するという役柄だ。
この映画はDMATの知られざる苦労や悩みを描くのが主眼だから、DMATの対応を批判した存在として記者が描かれるのは、わかる。
この映画が伝えようとしたのは、真実の一面であって、すべてではないと思っているから、記者が悪役扱いでも納得している。
映画「クライマーズ・ハイ」(2003年)のように、記者の奮闘を描く作品もあるわけだから、同じことだ。
欲を言えば、上野とは別に、良心的な記者がいて、上野をたしなめて改心させるという展開も可能だと思う。
でも、それだと、「医療関係者=善、マスコミ=悪」という物語の対立構図がぼやけてしまうから、上野を切り取って「マスコミ=悪」のイメージを貫き、善玉・結城が悪玉・上野を懲らしめる展開が必要なのだろう。
アブドーラ・ザ・ブッチャーが反則を尽くした挙げ句に、ジャイアント馬場にランニングネックブリーカードロップで葬られるのではなく、相棒のザ・シークに「おまえ、それはやりすぎだろう」と殴られてKOされたら、観客は面白くないのと同じ。
まあ、本当に悪意のある記者なら、取材相手に注意されて改心するなんてことはないと思うけど・・・
私は、新型コロナを巡る取材や報道で、マスコミがすべて正しかったとか、何も落ち度がなかったとか、思ってはいない。
マスコミも経験したことのない未曾有の事態で、取材や報道は、やっぱり、手探りだった。
至らない点は多々あったと思う。
「マスコミの過熱報道が国民を煽った」という批判は素直に受け止めたい。
「マスコミが報じなかった真実」「マスコミが医療関係者の足を引っ張った」という描き方は言い過ぎだと思う。
私たち記者は、煽るためにやったわけじゃないけど、新型コロナ禍の初期は、とにかく詳しく知らせなきゃいけないという思いが強かった。
特に、知る権利とプライバシー保護のはざまでは、私自身、大いに反省させられた。
当初は、感染者の行動履歴を報じた。
立ち寄り先の施設名も、自治体に開示を強く求めた。
メディアスクラムみたいな状態も起きた。
感染者の方々はもちろん、取材先の自治体や医療関係者の方々に不愉快な思いをさせたと思う。
感染者の立ち寄り先に居合わせた市民に感染している可能性があり、感染拡大を防ぐためにも、市民の不安解消のためにも、必要な情報だと思ったからだ。
だが、初期の感染者の1人が公立児童福祉施設の職員だった時、子どもを持つ親は気になるだろうと思って、勤務先の施設名を書いたら、尊敬する先輩記者に「そこまで書く必要があるか」と厳しく叱られ、ハッとした。
読者、視聴者がマスコミを煽る面もあった。
「新聞やテレビは、なぜ、感染者がどこの誰か、詳しく報じないのか。知っていて、隠しているんじゃないのか」と、私も言われた。
私は、そんな声を聞いて、逆に、「感染者のプライバシーは守らなきゃいけない」と、頭が冷えた。
周囲の記者たちも、そんな感じだったと思う。
私は、当初の自分の報道姿勢がやりすぎだったと気づいたから、その反省をコラムで書いた。
今さら、何を言っているんだと思った人が多かっただろうけど、けじめとして書いた。
コラムが載った日に「あんたの気持ちはわかってるよ」と握手を求めてきた自治体幹部の方がおられて、少し、ホッとしたのを覚えている。
この映画「フロントライン」は、ドキュメンタリーではなく、エンターテインメントだけども「事実に基づく物語」と、うたっているから、鵜呑みにしたり、便乗したりして、マスコミをたたく人がいるんだろうなと思ったら、案の定、そうだ。
レビューをネットで探してみると、、、
「マスコミは視聴率を煽るために偏重的な報道をする。世の中のサラリーマンのほとんどは、欺瞞や詐欺、嘘で固めてまで数字を取ることはしないだろうが、マスコミは一線を越えている」
「マスコミは医療関係者が何をしても批判する。なぜ、批判をするか。批判をすれば、視聴率が稼げるからだろう」
、、、といった感じだ。
新型コロナに限らず物事を偏った見方でセンセーショナルに取り上げるマスコミはたしかに存在する。
おそらく、多くの人が抱いている記者のイメージは、このセンセーショナルなマスコミ、はっきり言うと、ゴシップ誌やワイドショーの記者のイメージだ。
でも、マスコミが全部そうであるかのような言い方は、おかしいと思う。
これこそ、「都合の良いところだけ切り取る」だと思う。
そして、マスコミのほとんどの人も、世の中のサラリーマンのほとんどと同じように、欺瞞や詐欺、嘘で固めた仕事はしないと思う。
この映画の悪役記者・上野でさえ、嘘には手を染めていない。
船内に入った医師・六合が、現場の対応を批判する動画を発信して、それを活用した報道はしたけども、この動画の主張に間違いがあったとわかると、そこは反省している。
そもそも、問いたい。
おかしいと思うことを批判するのは「悪」なのか。
「政府や医療関係者が頑張っている。彼らのやることに間違いがあるわけないから、黙って見ていよう」という報道だったら、満足なのか。
私たち記者は、批判ばかりしているわけじゃないけど、批判は大事な仕事だ。
誹謗中傷はいけないけど、批判は、まっとうな活動だと思う。
さきほど紹介したレビューみたいなのが、誹謗中傷だ。
世の中には、いろんな考え方の人がいるから、記者と違う考えの人から報道に批判を受けることもある。
記者は、自分なりの考えを示して人を批判するのだから、逆に自分の考えが批判されることも、仕事のうちだとは思っている。
そして、記者は「人を疑う」という習性がある(だから、嫌われるのだけども)。
相手の言うことを鵜呑みにせず、ほんとにそうか?と考える。
そういう態度で聞いていたら、相手の言うことの矛盾に気づくこともある。
これは、相手をおとしめるためにやっているわけじゃない。
相手の言うこと、やることが、みんなの利益になるのか、見極めたいだけだ。
飲酒運転の検問をしている警察官は、ドライバーをいじめるためにやっているわけではなく、飲酒運転を見つけるためにやっているだけ。
飲酒していないドライバーが検問で止められて、不愉快になるのはわかるけども、それが警察官の仕事だから、仕方ない。
私は「お疲れさまです」と声をかけるよ。
新型コロナ禍で、おそらく多くの方が感じたであろうことは「熱狂の怖さ」だ。
先に述べたように、新型コロナ禍の初期の頃、私たち記者は、感染者の行動履歴や立ち寄り先を報じるなど、プライバシーに踏み込む過熱報道をした。
市民もヒートアップして「なぜ、新聞やテレビは感染者がどこの誰か、報じないのか」と言う声が出て、実際に私にも向けられた。
感染者の身元が暴かれ、自宅に石を投げられるなど不当な差別にあって、引っ越しを余儀なくされたという話も聞いた。
この映画の製作者は、この熱狂の怖さをよく知っているはず。
お上には、結城とタッグを組む厚生労働省の官僚・立松のように気骨のある人がいるという風に描く一方で、マスコミが諸悪の根源みたいに扱われるのは、なぜだろうか。
相棒・立松の美化はドラマとして、ありだけども、それにしても、美化しすぎ。
アシストを1度するくらいで十分だと思うけど、好アシストが何度も飛び出す。
医療関係者の奮闘を描く映画で、ついでに官僚の奮闘も強調されるのは、なぜだろう。
「実際に頑張ったから」と言うのなら、私たち記者だって、頑張ったよ。
ここまでキッパリと「医療関係者&政府=善、マスコミ=悪」という図式を打ち出されると、何か別の意図もあるプロパガンダかと勘ぐりたくなってしまう。
そして、マスコミたたきに便乗する人が出てくると、やっぱり、世の中、そういうものか、という気持ちになってしまう。
本当は、こういう対立は不毛だと思う。
こういう対立は、誰が何のために煽っているのか。
漫画「カムイ伝」(白土三平)では、江戸幕府が作った身分制度によって、農民と非人が対立し、憎み合う。
これは、「幕府に不満の目を向けさせないために幕府が民衆同士を対立させる仕組みを作ったのだ」と、主要キャラクターの1人・正助が看破して農民と非人の融和を図り、幕府に抵抗する。
さすがに、今の世の中は、そこまで単純ではないと思うけど、正助の言うことは現代にも通じる教えだと思う。
<余談・もし私が感染していたら・・・>
新型コロナ禍の初期の頃、私の勤務地の同業他社で感染者が出た。
報道対応、社員の保護という点で興味深かったので、少し書いてみたい。
まずは、A社。
この地域の事業所の従業員1人が感染したとのプレスリリースをファクスで各社に流してきた。
対面取材には応じず、電話取材のみの対応。
この感染者の年代、性別のほか、職種まで明らかにした。
聞いてみると、この事業所には100人くらい従業員がいるという。同じ職種の方も少なくないだろう。
これだと、たぶん、個人の特定はできない。
次に、B社。
この地域の従業員1人が感染したとして、記者会見し、報道各社の取材に対応した。
感染者の職場や職種は明らかにしなかった。
やり取りするうちに、おそらく数人しかいない支局の方だろうと、察しが付いた。
これだと、職場まで明らかにすると、個人が特定されてしまう。
だから、この場合、職場や職種は言わなくても仕方ないと、私は感じた。
先に感染者が出たA社の記者は、この会見の場で、かなり強硬だった。
「うちは明らかにしたのに、なぜ言えないのか」と、しつこく食い下がっていた。
A社のケースとB社のケースでは、個人のプライバシー保護を考えたら、事情が全然、違うのに、よくそんなことが言えるなと、私は思った。
B社の方は「それは言えない」と最後まで突っぱねていた。
私は、従業員のプライバシーを守ろうとするB社の方に、好感を抱いた。
その後、弊社の総務部門に「もし、わが社で感染者が出たら、どこまで情報を出しますか」と聞いてみた。
「そりゃあ、年齢、性別、職場、職種は公表しないといけないだろう」との答え。
当時、私の勤務地は4人しかいない支局。
年代、性別、職場がわかれば、私だと特定できる状態だった。
従業員のプライバシー保護に関して、弊社の意識は、この程度。
私自身は、こういう仕事だから仕方ないけど、家族に迷惑がかかるかもしれないのが申し訳ないと思った。
なお、これは、新型コロナ禍の初期の頃の話。
その後、感染者がどんどん増えていって、誰がかかっても、おかしくない状況になると、一人一人の感染者の情報に、世の中の関心は薄れていった。
弊社もそうだった。
その後、社内から感染者は何人も出たが、他社の取材に応じるような状況には、結局鳴っていない。
とりあえず、私は、心身とも丈夫なことが取り柄なので、現在に至るまで新型コロナには感染していない。

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