てっちレビュー

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新聞社のデスクの仕事 私の性に合わず解放されるよう知恵を絞った 若手記者の成長の手助けが唯一の楽しみ

 

新聞社の「デスク」の仕事は、楽しいのか。

私は、全く楽しくないと思う。

 

記者が出してきた原稿をチェックして手直ししたり、記者に取材の指示を出したりする役目。

ずっと、社内にいて、外に出られない。

私にはそれだけでストレスになり、性に合わない。

出てきた原稿を見て、「私なら、ここを掘り下げて膨らませるのにな…」と思ったり、「面白いネタだな。私が取材したかった…」と思ったりする。

そこでもストレスがたまる。

 

できれば、やりたくない仕事だ。

 

過去に2回、通算3年ほど、やらされた。

わずかに、やりがいを感じられるのは、才能を秘めた若い記者に出会い、成長の手助けをすること。これしかない。

 

デスクについて、そして、私がいかに逃れたか、説明しておく。

ここでは、編集部門のデスクに限って話す。

 

デスクは、人事の辞令で授かる役職ではない。

編集部門の内部的な運用で、しかるべき人にデスクの任務を授ける。

県政担当、警察担当といった記者の担当分野を内部的な運用で決めるのと同じこと。

役職で言うと、弊社の場合、デスクは、編集部門の局次長クラスや部長クラスが担う。たまに、部次長クラスが担うこともある。

(新聞社の組織は、編集局報道部のように「〇〇局〇〇部」というスタイルが一般的だと思う。おそらく多くの企業や官公庁の組織のように、総務部総務課といった「〇〇部〇〇課」スタイルではない。新聞社の局次長クラスは、多くの企業等の部次長クラス、部長クラスは課長クラスという風に、読み替えてもらったらいい)。

 

デスクは、内部的な運用で授けられるものなのだけど、異動の内示を受けた時点で、役職や職場の顔ぶれを思い浮かべたら、「デスクをやらされるんだな」と、わかる。

内示の時に「デスクをやってくれ」と言われることもある。

 

15年くらい前に、編集局のある部署の部次長になった時には「デスクとして、部長をサポートしてくれ」と内示で言われたが、デスク業務は、やらなかった。

その部署のデスク業務は、部長が1人でやってくださった。

私は記者として、どんどん外に出て取材し、記事を書いた。

部長は、温厚な先輩で、私のわがままを受け止めてくださった。

本当にありがたかった。

 

10年くらい前の時は、私は部長クラスになっており、後輩(部次長クラス)でデスクを担っている人がいたので、もう逃れられないなと観念した。

その後、弊社の上層部で政変があり、上層部では珍しく私を気にかけてくださっていた方が編集部門の実権を握られた。

私は好機とみて、「出先の中でも要所のX支局とY支局には、デスク級の人間を記者として置いたほうがいい。私が担いたい」と売り込んだ。

それが功を奏したのか、デスクから解放され、Y支局に放出してもらえた。

 

同じタイミングでデスクから解放され、X支局に放出されたのは、同年代の同僚A。

根っからの記者なのに、早くからデスク業務を担わされ、いつも暗い顔をしていた。

放出人事の時には、2人で笑い合ったものだ。

 

その後の数年間、私は支局を渡り歩き、記者として、楽しく過ごしていた。

ところが、弊社内の上層部の体制が変わり、5年くらい前に、またもデスク(役職は局次長)として、呼び戻されることになった。

この時点で編集部門の実権を握っていた方は、私ごときを相手にしておられない方。

なぜ、目を付けられたのか。

 

同じタイミングでX支局からデスクのまとめ役として呼び戻された同年代の同僚Aが原因だった。

実権を握っていた方は、Aを高く評価しておられた。

Aを呼び戻すにあたり、手下のデスクとして誰がほしいか、Aに事前に聞いたらしい。

Aは、その1人として、私の名前を挙げたという。

だいぶん、のちになってから、Aと2人で飲んだ時に打ち明けられた。

「巻き込んで、申し訳ない」と言っていた。

その時点では、もう笑い話だった。

 

この状況では、実権を握っておられる方に嫌われて飛ばされるしかないと思い、私はたびたび、反抗した。

体面を潰したのは申し訳なかったと思う。

それが影響したかどうかはわからないが、私は、小さな支局に異動になった。

支局長の私しかいない、いわゆる「1人支局」。

部次長クラスの人が行く支局だったので、言ってみれば「2階級降格」。

着任のあいさつ回りの時に「左遷ですか」と、言われることもあった。

(現在の赴任地は、また違う支局)。

 

私は、記者として、伸び伸びと仕事ができれば満足だ。

記者としての仕事ぶりを取材相手や読者に褒められるとうれしいし、褒められるような良い記事を書きたいと思う。

社内的な出世とか肩書きには興味がない。

価値観は人それぞれで、出世や肩書きに気をもむ同僚もいる。

親しい後輩の1人は、私と逆で、「支局勤務は嫌。本社でデスクがしたい」という考え。

別の後輩に「自分の後輩がデスクになっているのに、自分には声がかからない。どうしたらいいか」と悩みを打ち明けられたこともある。

私みたいな人間に、いやいやデスクをさせるよりも、やりたがっている人、性格的にデスク向きの人にどんどんやってもらえばいいのに、と思う。

上層部の方に、そう言うと、「いや、あいつには無理だ」などと決めつける答えが返ってくる。

立場が人を成長させるので、やる気があれば、誰でもできるようになると思うけど。

少なくとも、私のようにデスクは絶対に嫌だという人間にやらせるよりはいいと思う。

 

デスクのやりがいについて、語ってみたい。

記者の立場でも、先輩として同じ部署の後輩記者の指導をするし、原稿に手を入れることもあるけど、それとはまた違う。

特に、原稿の書き方に関しては、デスクの立場のほうが、後輩記者への関わり方が大きい。

デスクだと、自分では取材もできないし、原稿も書けないから、後輩記者の成長にしか、やりがいを見いだせない。

こちらの思い入れも自然に大きくなる。

先輩記者として接した後輩記者のうち、特に思い出深い後輩記者2人については、またの機会に書きたい。

 

デスクとして接した後輩記者のうち、特に印象深い記者は、3人。

 

<事例その1・若手記者Bは原稿のコツをつかんだら飛躍した>

若手記者Bは、入社2年目くらいだったろうか。

他のデスクに聞くと、評判は芳しくなかった。「毎日、どこにいて何をしているか、わからない。連絡がなかなか取れない」と言われていた。

デスクに着任後、残し原稿がしまってある「残稿フォルダ」を見たら、ものすごく長くて、数カ月間、放置されている原稿があった。

それがBの力作。

私は、開いて読んでみて、面白いと感じた。

原稿が異常に長いし、組み立てが散漫で読みにくいが、「ここが面白い」「ここを伝えたい」という記者の思いがビンビン伝わってきた。

のちに知るけども、Bは、マイペースで、これと思うと、のめり込むタイプ。

着眼点が面白く、取材力も高かった。

うまく原稿を整えられたら、良さが生きると思った。

力作の原稿は、取材が足りない箇所に「ゲタ字」(「〓」の記号)を入れたり、私の想像で補ったりしながら、原稿スタイルで骨格を組み立てた。

この種のレポート記事は長いので、スッと読んでもらうには、リズムや流れ、メリハリが重要だ。

私が骨格を組み立てて、足らないところを追加取材して出し直すように指示した。

Bは、もう載らないのだろうと半ば諦めていた原稿に光が当たって喜び、素直に指示に従ってくれた。

このような経験を繰り返すうちに、Bは原稿のコツをつかみ、あとは、自分で持ち味を生かして、スイスイと伸びていった。

職場の仲間への気配り、後輩の面倒見の良さといった別の長所も生きて、Bは若手の柱に成長していった。

 

<事例その2・若手記者Cは災害の取材で成長した>

若手記者Cは、入社1年目で既に「使えない記者」のレッテルを貼られていた。

本当に気の毒だ。

悪気はないと思うが、ちょっとした言動が「生意気」「斜に構えている」という印象を与えてしまい、損をするタイプとみた。

輪に入るのも苦手で、孤立している感じだった。

話してみると、真面目で賢く、自分なりの物の見方ができる若者だと思った。

少しずつ実績を積ませて、自信を付けてもらうことが肝心だと考えた。

「こんな話があるけど、君はどう思う?」という風に、水を向けて、興味を示したら、「こういう見方もあるぞ」「こんな取材先にも聞いてみると面白いかもしれない」と話の膨らませ方を示唆していったつもり。

私の接し方が役に立ったかどうかは、わからない。

結果としては、ある災害の取材を担当したことが、飛躍の足がかりになった。

Cは、熱心に現場に足を運び、持ち前の真面目さで地域住民の信頼を得ていった。

被災後の地域の姿や復興の課題を伝えるレポート記事が秀逸だった。私が手直しする必要がないほど、よく書けていた。

特に、Cなりの意見がしっかりと書けていた。職場内でも、出来栄えの良さが話題になったほどだった。

本人も会心作だと自信があったようで、周囲に褒められ、本当にうれしそうだった。

 

<事例その3・若手記者Dは独創的な原稿が印象深い>

若手記者Dは入社してきたばかり。物静かで、フワッとした感じの若者だった。

まず、独創的な原稿が目を引いた。

私なりに、いろんな記者の初稿(デスクが手直しする前の原稿)を見てきたし、新入社員研修に携わって、初めて新聞記事を書いた人の原稿も見たことがある。

それでも、ここまで個性的な原稿は、後にも先にも見たことがない。

新人記者でも、先輩記者の記事を参考にして新聞記事っぽい原稿を書いてくるものだ。ところが、Dの原稿は、そのようなことは考えず、心のままに書いた感じだった。

あるデスクは「ポエム」と言い表していた。

まさに、そんな感じの文体。

「〇〇した」「〇〇だった」という調子で、短い文章が淡々と重ねられ、情景描写には、Dの感性が表れていた。

私は、Dの原稿をどうしたか。

普通の新聞記事に近いテイストになるよう、大幅に手直しした。

出来事をわかりやすく伝える新聞記事としては、やはり、不適切だと思ったからだ。

なるべく初稿の味わいを残そうとは思ったけど、うまくできなかった。

これは、私の力不足で、申し訳ない。

原稿でわかったけども、Dは、取材が丁寧で、観察力が優れていた。

ルポのように、ディティールを書き込む記事で、持ち味を発揮しそうだった。

そして、Dは、素直で根性のある若者でもあった。

だから、私も本気で対応した。

きついことも言った。

何度も取材をやり直させて、泣かせたこともある。

いつも、ちゃんとやり直して、良いものを出してきた。

高校野球の企画記事が秀逸だった。

編集局長が「本当に新人が書いたのか」と、担当デスクの私に聞いてきたほどだ。

本人も、局長に褒められ、喜んでいた。私も、うれしかった。

 

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