(数珠や黒ネクタイは「記者の七つ道具」のひとつ。急に必要になることがあるので、車に置いている)
有名人が亡くなった時、死去の事実や簡単な経歴を伝える訃報の「本記」とは別に、関係者の談話で人柄やエピソードを伝え、故人をしのぶ「サイド記事」を書く。
このような訃報のサイド記事は普通、親しかった人に取材して書くので、「良い人だった」「偉大な人を失った」という、ベタ褒めトーンになる。
それがいけないわけではないけど・・・
私は、仲が悪かった人たちの話を盛り込んで書いたことがある。
もちろん、故人に失礼のないように表現を工夫しながら、だ。
やり手で、アクが強く、敵も多い故人だったので、人物像をうまく表せたと思っている。
うまく説明できないけど、イヤミで言うのではない。
良くも悪くも、多くの人の人生に影響を与え、心に残ったのだ。
濃い生きざまだったのだと思う。
これまでに書いた訃報サイド記事の中でも、特にお気に入りだ。
故人は元衆院議員。
亡くなったのは数年前で、100歳近い大往生だった。
私と同僚記者が手分けして関係者を取材し、私が訃報サイド記事の「アンカー」を務めることになった。
(アンカーとは、複数の記者で手分けして取材した内容を取りまとめて記事を書く役目のこと)。
取材相手として、真っ先に思い浮かんだのは、ともに故人の元秘書で、元衆院議員のA氏と、県議会議員のB氏。
2人とも故人を「おやじ」と呼んで慕い、A氏は、故人に特に可愛がられていた。
ところが、A氏にも、B氏にも、取材を断られてしまった。
遠慮したい、とのことだった。
予想外の展開に戸惑ったけども、ひらめいたのが、逆に、仲が悪かった人たちのコメントを集めてみようという発想。
すぐ頭に浮かんだのは、元衆院議員のC氏。
故人の秘書を経て県議になった後、衆院選に出て、故人を破って当選した。
この師弟対決は、さらに続きがある。
次の選挙では、C氏の対立候補としてD氏が出て、故人の支援も受けて当選した。
このような経緯から、故人とC氏は公然と罵り合うレベルの険悪な関係だった。
私が取材をかけると、C氏は当初、「なんで、おれに聞くんだよ?」と不審に思った様子だった。
私は、「そのほうが記事に深みが出ると思う」と説明。
勘のいいC氏は、これで理解してくれ、「じゃあな、『人生の厳しさ』、いや、『人生のありようを教えてくれた先生だった。ご冥福を祈る』って、コメントは、どうだ?」と答えてくれた。
中選挙区時代の衆院選で、それぞれ、故人としのぎを削った、衆院議員のE氏には同僚記者が、元衆院議員のF氏には私が当たった。
2人とも故人と仲が悪かった。
E氏のコメントは、割と普通に故人をたたえる内容。
ある意味、機転が利かないE氏らしさが出て、面白かった。
F氏は、歯に衣着せなかった。
もっと、すごいことも言っていたが、記事に使ったコメントは「毀誉褒貶もあり、苦労があったと思う」。
うまいな、と思った。
ただ、さすがに、仲の悪かった人ばかりというわけにはいかないな、と思っていたところ、別の同僚が、故人を敬愛する2人を新たに見つけて、コメントをゲット。
故人の元秘書で自治体首長のG氏、故人の政治塾で学んだ市議会議員のH氏だった。
G氏は、前年に故人と会っており、「お元気そうで、100歳を超えても生きられると思っていた」とリアルな近況が聞けたのがよかった。
「気骨のある政治家だった」と素直に故人をたたえてくれた。
最終的には、D氏ら中立的な2人も加え、計7人(敬愛2人、嫌悪3人、中立2人)のコメントで記事を構成。
素直に敬愛するG氏、遠回しに批判するC氏、皮肉にしか聞こえないF氏の3人のコメントで、記事が引き締まり、深みが出たと思う。
故人とそれぞれの方々との関係は、政治に興味がある読者しか知らないと思うけど、そうでない読者にも、なんとなく、ニオイは伝わったと思う。
最初に、A氏とB氏に取材を断られなければ、このような構成は思い浮かばなかっただろう。
いわば、ケガの功名だ。
<「評伝」を書けると、なお良い>
記者が思い出を交えて、人となりを振り返り、故人をしのぶ記事「評伝」を書くことがある。
これは、故人をそれなりに知っていて、思い入れがないと書けない。
逆に言うと、記者にとって、そんな相手の場合でないと書けない。
心から故人をしのび、葬式で弔辞として、そのまま使えるような内容(弔辞なんて、やったことないけど)。
もし、故人があの世で聞いてくれていたら、いいなと思いながら書く。
私は一度、書いた。
県議会や自民党県連の重鎮だった方が数年前に亡くなった時(90歳近くで、もう要職からは退いていた)。
口下手だけども、策士で、先読みが鋭く、駆け引きや人心掌握術に長けていた。
ある意味、これぞ、政治家というタイプの方だった。
負けず嫌いで、各種選挙や県議会内、自民党県連内の権力闘争になると、躍動した。
晩年は独裁体制を築いていたところ、反乱が起き、権力の座を追われた。
しょんぼりした姿を見たのは、この時が初めてだ。本当に可哀想に思った。
腹黒い面が多々あり、何度もだまされたけど、情に厚く面倒見が良い面があった。
地元の有力国会議員を長らく支え、自らが権力の座を追われてからも、なお、その行く末を案じ続ける一途さがあった(しかも、この国会議員は反乱の時に、この方をかばおうとしなかったのに)。
そこが好きだった。
この方が亡くなった時、私は全然関係ないところが赴任地だったけども、志願したら、評伝を書かせてもらえた。
ちなみに、別の元県議が亡くなった時は、評伝は書いていない。
かつて県議会、党県連で、前述の方と張り合った実力者で、私は、こちらの方も好きだった。
ただ、こちらの方の場合は、印象的なエピソードが腹黒い策略ばかりで、評伝向きに書けそうになかった。
カラッとして、開放的な性格で、口の悪さも慣れれば、なんてことはない。そういうところが好きだった。
たとえば、何かの選挙の時に部屋の隅で密談しているから、近寄ったら、「おー、おまえのところの新聞は誰も読んでないからな。ええぞ。来いや」という感じ。
前述の方に反発するグループの飲み会にも、誘ってもらった。
前述の方と同世代だが、早々と引退し、地元地域の政界の黒幕として、晩年も存在感を放ち続けた。
引き際という点でも、対照的だった。
最盛期の権力の大きさは、前述の方に及ばなかったけども、味のある政治家だった。
評伝を書けなかったのは、申し訳ない気持ちもある。
