
「ルックバック」(実写映画)
「私のせいだ。京本、部屋から出さなきゃ、死ぬことなかったのに」───
この主人公・藤野の自責のセリフがバッサリと削られた点をどうとらえるか。
ここは、好みが分かれるだろう。
9月11日に公開された実写映画「ルックバック」(監督・是枝裕和)を見た。
漫画家・藤本タツキの長編読み切りが原作で、2024年の劇場版アニメに続く映像化。
原作漫画と、それに忠実に沿う劇場版アニメでは、自分のせいで親友を不幸にしてしまったという藤野の自責の念が、衝撃的なストーリーのドラマ性を高めている。
そして、そこから藤野が立ち直る姿に、爽快感がある。
これこそがこの物語の最大の魅力だと、私は思う。
以前、劇場版アニメのレビュー記事を書いたけども、ごく簡単にストーリーをおさらいすると・・・
漫画家を志す少女2人の物語。
快活で漫画を描くのが得意な藤野は、不登校で絵がうまい京本と出会う。
引きこもっていた京本を部屋から出したのは、藤野の4コマ漫画だった。
2人はコンビで漫画を描くようになる。
しかし、高校卒業後、早くプロになりたい藤野と、美術大学に進んで画力を高めたい京本の思惑がすれ違い、2人は別れる。
その後、藤野がプロになって成功を収める一方で、京本は美大で惨事に巻き込まれ、命を落とす・・・という展開。
惨事は、藤野と無関係のことなのだけども、藤野は、京本を外に出してしまったから惨事に巻き込まれる羽目になったと考えて、自責の念に駆られ、この記事の冒頭に示したセリフを発する。
・・・というのが原作漫画や劇場版アニメの展開だ。


この後、藤野と京本が小学生の頃に出会っていなかった場合のパラレルワールド展開に突入し、「藤野と出会って幸せだった」旨、示唆する京本の4コマ漫画が届いて、藤野が立ち直るのは、実写映画版も同じ。
ただ、「私のせいだ」というセリフがないと、かなり印象が変わってくる。
実写映画版で初めてこの物語に接した人は、相棒の京本を失った藤野の寂しさまではわかるとしても・・・
先に原作漫画や劇場版アニメを見ていない限り、藤野の自責の念に思いを至らせることは困難だろう。
パラレルワールド展開で、藤野が京本を危機から救う描写があるとはいえ・・・
セリフが極限まで削ってあり、「忖度」というか、「慮る力」をフル稼働しないと、ついていけない邦画お得意の作り方だと思った。
結果として、原作漫画や劇場版アニメを先に見た方は、セリフ以外の描写から、藤野の自責の念を読み取ろうというパズルみたいな楽しみ方もできるのかもしれない。
私はしないけど。
そして、「漫画的で過剰なセリフだから、実写映画らしいリアリティを損ねてしまう」という判断もあったのだろう。
実写映画版は、自責の念に苛まれ、それでも立ち直るという要素が薄まった。
上映時間が長くなった分、劇場版アニメのようなテンポの良さも失われた。
その代わり、藤野と京本の触れ合いが原作漫画や劇場版アニメ以上に丁寧に描かれ、京本を失った藤野の寂しさが前面に出る作りになっている。
たとえば、一緒に漫画を描きながら、京本が、「手のひらをこすり合わせて耳に当てると、海の音が聞こえると、おばあちゃんに教わった」と言い、藤野も真似をする場面がある。
ラストシーンでも、藤野は、その仕草をして、京本をしのぶ。
これらは、原作漫画や劇場版アニメにはない描写。
プロになった藤野が、アシスタントたちに囲まれているけども、京本とのコンビ時代のような触れ合いはなく、藤野の孤独感を表す描写もある。
ある時、漫画雑誌の編集者が寂しそうな藤野の様子を見て、声をかける場面も面白い。
「寂しいでしょ。作品がアニメになり、グッズも出て、自分の手を離れていくようで。プロはみんな通る道だよ」と。
藤野は、あいまいな笑顔を返すけども、「いやいや、私が寂しいのは、そこじゃないよ」という気持ちだったに違いない。
これらの描写も、原作漫画や劇場版アニメにはない。
実写映画版は、「苦悩と克服」ではなく、「喪失感」に軸足を置いて、リメイクした作品とも考えられる。
雪国の秋田県が物語の舞台なので、雪景色もよく出てくる。
この真っ白な風景が、京本がいなくなってからの回想シーンでは、親友を失い、静かに悲しむ藤野の姿と重なり、言葉にならない寂しさを高めているようにも、思える。
やっぱり、邦画版「ルックバック」なのだなと、感じる。
