「アイルトン・セナ 15年目の真実 複合事故」
フランコ・パナリッティ著、長谷川信幸訳
1994年5月1日、F1サンマリノGP決勝レースで、ウィリアムズのアイルトン・セナがトップを走行中、マシンのコントロールを失ってコースアウトし、コンクリート壁に衝突、死亡した。34歳だった。
すでに3度ワールドチャンピオンに輝いていた天才ドライバー。
この年、当時最強チームのウィリアムズに移籍し、4度目のワールドチャンピオンが有力視された中での事故死だった。
本書は、マシントラブルが原因とされるセナの事故について、背景に心理的な要因があったと指摘する。著者はイタリアのスポーツ記者。
著者は、直接の事故原因は、ステアリングコラム(ハンドルから伸びる軸のような部品)の破損によるという説をとっている。
レース前にセナの要望を受け、大きめのステアリングに付け替える改造が行われたが、チームが稚拙な改造作業を行ったため強度不足になり、壊れたという。
普通なら人一倍、マシンの状態に気を配るセナが不備に気づかなかったのは、チームとの不和が背景にあったためだとしている。
セナは1988、90、91年とマクラーレンでワールドチャンピオンになったが、92年はウィリアムズのナイジェル・マンセルに太刀打ちできず、93年のウィリアムズ移籍を希望したが、宿敵アラン・プロストに阻まれる。
94年にウィリアムズ入りを果たすが、94年型マシンFW16の出来が悪かったというのが、誤算のひとつ。まずこれでセナのストレスがたまったという。
ウィリアムズ入りの舞台裏も書かれており、94年の移籍交渉に当たり、93年はプロストとウィリアムズの引き立て役に回る密約を交わしたとの推論が面白い。
さらに、マシンの開発能力が高いセナは、これまで渡り歩いたチームでは自らの提案をどんどん受け入れてもらい、自分に合ったマシンを操縦できたが、ウィリアムズでは提案が受け入れられず、セナがストレスをためていき、マシンのチェックを怠ってしまったと推測している。
スタッフとの関係が悪かったのに、サンマリノGPで、なぜステアリング取り替えが受け入れられたのかとか、疑問点は残るが、事故の背景として、心理的な要因に注目したのは、面白い。
なお、94年サンマリノGPは予選中に2日続けて事故があり、2日目の事故では若手ドライバーが死亡した。このためセナに心理的な動揺があったという話は、よく知られている。
また、ウィリアムズ移籍でワールドチャンピオンの最有力候補とみられながら、第1戦はマシントラブル、第2戦は他のドライバーにぶつかられ、いずれもリタイアに終わり、2戦とも優勝をベネトンのミハエル・シューマッハーにさらわれ、焦りがある中で第3戦サンマリノGPに臨んだことも想像できる。
ようやくウィリアムズ入りを果たしたのに勝てなかったセナの気持ちを考えると、気の毒だ。事故死に心理的な要因があったとすれば、ますますセナの死は悲劇的。
自分はシューマッハーが嫌いなので、セナが94年に事故死していなかったら、その後のシューマッハーの図に乗りようもなかっただろうに、と思う。
ちなみに事故死したF1ドライバーで心理的な要因が指摘される悲劇のドライバーは、ジル・ヴィルヌーヴ(フェラーリ)、フランソワ・セヴェール(ティレル)が代表的。どちらも好きなドライバー。
ヴィルヌーヴは1982年ベルギーGP予選中、他の車を抜こうとして接触事故を起こし死亡した。32歳だった。
チームメイトのディディエ・ピローニとの確執が背景にあった。
前戦サンマリノGP決勝で、ヴィルヌーヴがトップ、続いてピローニというフェラーリの1-2体制で3位以下を離して独走中、チームから「無理せず今の順位をキープしろ」という趣旨の指示が出たので、ヴィルヌーヴがペースを落としたところ、ピローニがゴール直前で追い抜いて優勝をさらった。
ヴィルヌーヴは怒り、冷静さを欠いてベルギーGPに臨み、ピローニを上回ろうと予選で必要以上に無理な走りをしたのが、事故につながった。
セヴェールは1973年アメリカGP予選中、カーブでガードレールに衝突し、死亡した。29歳だった。来季、若手の成長株ジョディ・シェクターのチーム加入が決まっており、代わりに自分がクビになるのではないかと不安になっていた。誤解だったので、余計にかわいそう。
ティレルには、2度ワールドチャンピオンを獲得し、今季もチャンピオン目前のジャッキー・スチュワートがエースとして在籍し、セヴェールはサポート役だった。
スチュワートは今季限りで引退する意思を固めており、チームの監督は、来季はセヴェールをエースに昇格させるつもりだった。監督は、サポート役にするつもりで、シェクターと来季の契約を結んだ。
ところが、スチュワートや監督の思惑を知らないセヴェールは、自分がクビになると思い込んでしまう。そして迎えたアメリカGP予選で走行中、たまたま後方から追い上げてきたのがシェクターだったことも、セヴェールの気持ちに火をつけ、無理な走りをしたと考えられている。
ヴィルヌーヴについては、伝記「ジル・ヴィルヌーヴ 流れ星の伝説」がとても面白いので、人となりを含め、またの機会に書いてみたい。
あと、ロータスのエースだったのに、後から入ってきたセナの活躍で影が薄くなり、ブラバムに移籍して間もなくテスト走行中、事故死したエリオ・デ・アンジェリス(1986年に28歳で死亡)も、悲劇的なにおいがして好きなドライバーだ。
※※※以下、読書メモ※※※
1994年5月1日に起きた悲劇の中心的要素にはいつもと違う変質したセナの肉体的、精神的状態があったことを私は指摘したい。
<紆余曲折あって念願のウィリアムズ入り>
その話は93年から始める必要がある。93年のF1チャンピオンシップは憎悪に満ちた選手権だった。
セナは開幕前に「必要であるならば無償でも走る」とまで発言してウィリアムズ移籍を希望したが、プロストのチーム加入と彼の反対によって、セナの移籍は実現しなかった。
プロストの契約書にあった条項とルノーのプロスト贔屓が、セナの93年のウィリアムズ入りを実現させなかった。
セナは激怒した。失望感は並大抵ではなかった。1年間レースを離れ、その後また、4度目の世界タイトル獲得のため、ウィリアムズ移籍を試みる可能性があることを表明していたくらいだ。
セナは、マクラーレンが搭載していたフォード製エンジンが、プロストが使うルノー製エンジンに歯が立たないことを知っていた。それでも第2戦ブラジルGPでは伝説的な勝利を飾った。
1勝をあげたものの、セナは、マクラーレンの監督ロン・デニスが幾度となく提示する契約更新をしなかった。1レース100万ドル。ゲームのようにコインを1枚入れるごとに1プレーする。セナとマクラーレンの間にはそんな異常な関係が続いた。
セナはヨーロッパGPでも、ルノーエンジンより70馬力は劣るエンジンで優勝し、プロストに屈辱を味わわせた。プロストがマシンの問題を記者に向かってコメントし始めると、待ってましたと言わんばかりにセナは「ならばマシンを交換しようじゃないか」と言い返した。セナらしからぬ態度だった。
しかし、あのときセナの目には敵しか映らなかった。プロストもデニスも誰もが敵だった。セナから見れば、デニスはホンダとの関係をいともたやすく切ってしまい、安易に違うエンジンメーカーとの交渉を始めてしまった責任者だった。
93年のチャンピオンシップで、セナは、性能で劣るマシンに乗りながら年間5勝を達成した。いかに偉大なドライバーであるか、あらためて認識させられる事実だった。
ルノーは当初、プロストの独壇場を予想していたが、セナや、3勝をあげたプロストのチームメイト、デイモン・ヒルの活躍もあり、チャンピオンシップの行方が分からなくなり、シリーズ中盤には困惑の色を隠しきれなくなった。92年にナイジェル・マンセルが見せつけたようなウィリアムズな圧倒的な強さはもはや見られなくなった。
セナはセナらしからぬ行動をとり始める。
マクラーレンのピットで過ごす時間はレースごとに短くなり、意欲も見られず、夜の帰りも遅くなるばかりだった。自分とマクラーレンとの関係が不可逆的に悪化し、もはや終わりに近いことを態度で示していたのだ。一方ではウィリアムズとの交渉を続けた。
フランスGP決勝前夜、セナは、皆の驚きの中、マクラーレンとの契約を更新した。
実はその直前にウィリアムズと94年の契約書にサインしていた。それはルノーにとって、倒す相手が「パートタイム」のセナでは都合が悪かったからという推測が成り立つ。
セナはウィリアムズとの契約書にサインした際、残った93年のレースをフル出場することによって、プロストの、そして、ウィリアムズ・ルノーの勝利を、そしてプロストの4度目のタイトルを正当化することを保証した。いや、強いられたのだ。
<チームとの不和>
ブラジルGP予選1日目にセナは落胆する。ステアリングを大きくしてほしいという大事なリクエストが無視されていたのだ。
巨大なGフォースを受け、路面からの強烈なキックバックに耐えながら走るF1では、ステアリングを握る手の位置が微妙にずれただけで指の関節が腫れてくる。だが、ミリ単位で設計されたコクピット内は手の自由を簡単には許してくれない。
セナのこの時期の心境は複雑だったに違いない。自分が下した人生の選択、ウィリアムズとの契約、そして新しいチームのスタッフとの関係に対する不安は募るばかりだったはずだ。
セナにとってブラジルGPは予選からシビアだった。コクピットは相変わらず体に合わず、なんとか満足できる解決策を見つけるためエンジニアたちとの作業が続いた。その甲斐あってか、セナはポールポジションを獲得した。それはセナの実力以上の何物でもなかった。
そして日曜のレース。セナはピットストップまではリードを保ったが、22周目に行った最初のピットストップで、ミハエル・シューマッハーを擁するベネトンは、驚異的な早さでタイヤ交換と燃料補給を行い、一気にトップでコースに復帰した。
2位に後退したセナはいつもの闘争心で追い上げに入った。ところが、最終コーナーへと続く左回りのコーナーでまさかのスピン。エンジンの火も消えてしまい、56周目のこの時点でセナのレースは終了した。
優勝はシューマッハー、2位はセナと同じくウィリアムズのヒル。2位ながら周回遅れにされたヒルのことを考えれば、FW16がいかに未完成なマシンだったか、想像できるだろう。
ところが、本来ならマシンの問題点について考えるよい機会となるはずだったこのレースも、残念ながら、セナのミスというだけで片付けられてしまった。
セナはこれまでF1で走ったチームで、自分にぴったりのマシンを作ってくれるエンジニアに出会ってきた。
それはラッキーなことだった。手にするマシンには常に満足し、ドライビングも苦でなく、セッティングも比較的楽なものばかりだったのだ。
ウィリアムズ以外のチームでは、セナの提供する情報や仕事が極めて正確で、エンジニアを凌ぐものであることに気づいていたのだ。
ところが、ウィリアムズでは、マシンの改良に関してはチーフエンジニアの考えが、何がなんでも優先されるようであった。
セナはステアリングやウインドシールド、そしてドライビングポジションの変更を要求した。ところが、これらのほとんどが無視されたのだ。空力デザイナーのエイドリアン・ニューウェイと、チーフエンジニアのパトリック・ヘッドは、どうしてもセナの主張を理解できないようだった。
岡山の英田サーキットで開かれた第2戦パシフィックGPでも、セナは、ポールポジションを獲得した。
だが、レース開始直後、第1コーナーでミカ・ハッキネンがセナに衝突。またしても勝利を手にするシューマッハーの走りを傍観する羽目になった。
パトリック・ヘッドは、スタートで不幸にもセナがぶつけられたのは事実だが、そもそもの原因は、セナのスタートミスだと言い放った。しかもこれで2回目だと。
こうまで言われては、セナが、マクラーレンにいたときのような待遇をウィリアムズで受けていないと感じたのも無理はない。
セナは、ブレーキにも不満があった。
セナはマクラーレン時代に慣れ親しんだブレンボ製のブレーキシステムが好みだった。セナはブレンボを強く望んだが、ウィリアムズは昔からAPロッキード製のブレーキシステムを採用し続けており、それを替えようとはしなかった。セナはAPロッキードのタッチが好きではなかった。ブレーキを踏んだ時にペダルに微妙な遊びがあり、しかも、その程度が毎回一定ではないと訴えていた。
それは凡人には理解できない極めて繊細なフィーリングなのだろう。しかし、セナのように些細なディテールにとことんこだわる気難し屋には、それは許せないことだった。
セナはかなりナーバスになっていた。クサってもいた。エンジニアにいくら言っても聞いてもらえない。しかも新たな問題が次々に浮かび上がる。
本当の敵はコンピュータだった。ニューウェイが盲目的に従うあのコンピュータだ。その電子頭脳のおかげで、セナの意見はことごとく無視されていた。
パシフィックGPが終わった時、まさに日本を離れ、ヨーロッパに戻ったこの瞬間、セナの悲劇のドラマは始まったのである。
セナは、F1人生の中で自分の意見が取り入れられなかったことは過去になかった。トールマン、ロータス、マクラーレンとチームを渡り歩いてきたが、いつでもセナの意見は最も尊重されてきた。
ところが、このウィリアムズでは、セッティングにマシンが反応を示さなくても、コースの部分部分で操縦不可能であろうとも、チームのエンジニアたちはコンピュータのグラフやデータがはじき出す指示だけに従おうとし、セナの言葉には耳を貸そうとしなかった。
<事故原因>
アクシデントの原因は、ウィリアムズのエンジニアがセナの要請により改造したステアリングコラムの破損にあるという。
車載カメラの映像ではセナのステアリングの動きが極めて変則的。ステアリングにトラブルが発生し、それに気づいていたなら、なぜ、セナはピットに入らなかったのか? FW16のドライビングのしにくさに慣れてしまっていたからか? チームのエンジニアたちとの対立に疲れ、あの振動もマシンの欠陥のひとつだと思ったのだろうか?
いや、セナはあの週末の一連の事件に相当なショックを受けたのである。
さらに、マシンの改良を要求したにもかかわらず、何カ月もの間、何もなされない状態にうんざりしていた。
そして、セナはドライバー人生で初めて自らのガードを緩めた。
すなわち自分のマシンに行われた仕事に対し、生まれて初めてチェックを怠ったのである。
(2017年7月10日Facebook投稿を転載)