「描くひと 谷口ジロー」
鳥取県にある、ふたつの空港には、県出身の漫画家の作品にちなむ愛称が付いている。
鳥取空港は「鳥取砂丘コナン空港」、米子空港は「米子鬼太郎空港」。
前者は青山剛昌(鳥取県北栄町出身)の代表作「名探偵コナン」、後者は水木しげる(鳥取県境港市出身)の代表作「ゲゲゲの鬼太郎」にちなむ。
2人とともに「鳥取県出身の三大巨匠」と位置づけられる谷口ジロー(鳥取市出身)の影は、そこにない。ファンとしては、残念でならない。
独特の作風を築いた実力は、決して2人に引けを取らないと思うのだが・・・
ひとつには、コナンや鬼太郎のように、子どもから大人まで幅広く親しまれるシンボル的なキャラクターが、谷口漫画には見当たらないからだろう。
ドラマ化、映画化されて比較的知名度の高い作品「孤独のグルメ」(原作・久住昌之)にちなんで「鳥取孤独グルメ空港」というわけにもいくまい。
なぜ、谷口漫画には、コナンや鬼太郎のようなキャラクターがいないのか。
谷口は、キャラクターについて、一風変わった考え方を持っていたようだ。
本人いわく───
私の作品と多くの漫画の違いは、キャラクターにもあると思います。日本ではキャラクターが成功なら、漫画も成功すると言われている。シリーズの基本原則は、キャラクターが魅力的で偏在的であることです。でも私はこの原則に対し、いつもためらいがあったのです。そしていくつものストーリーで、最初のシーケンスにキャラクターが登場せず、背景しか出ないというものを描いた。漫画では背景は記号として描かれていたけれど、背景にも意味がある。例えば「歩くひと」では、背景は本質的なものなのです───
本書「描くひと 谷口ジロー」は、ロングインタビューや関係者の証言で漫画家・谷口ジローを深掘りする。インタビューの聞き手は、フランスのバンド・デシネ(BD)原作者ブノワ・ペータース。
キャラクターに関する考え方は、このロングインタビューに出てくる。「私にとって背景は物語の登場人物なんです」という言葉もある。
実際に「歩くひと」では、登場人物の感情を、「きれいだ」「気持ちいい」というようなセリフを使わずに、表情や背景の描写で表した点が面白い。
風景の描写は、版画家・川瀬巴水の作品をかなり参考にしていたことも、アシスタントらの座談会で明かされる。木版画の感じを目指していたのだとか。
ロングインタビューでは、私が大好きな作品「ブランカ」の制作秘話が興味深かった。
「ブランカ」は、谷口にとって初のオリジナルの長編。
1984年から86年にかけて「マガジン・ノン」に掲載され、大幅に加筆したコミックスが96年に出版された。
ロシアに対抗心を燃やすR(エール)共和国がバイオテクノロジーによって能力を高めた戦闘犬、ブランカが主人公。ブランカはR共和国の研究所を脱走し、故郷の米国を目指す。軍事機密の漏洩を恐れ、ブランカを抹殺しようとするR共和国の追っ手をかわしながら、愛しい飼い主の元へ向かい、走り続ける───というストーリー。
ロングインタビューから一部抜粋する。
※※※以下、引用※※※
「シートン動物記」の「狼王ロボ」にブランカという狼が出てくるんですけど、その言葉の響きに惹かれてタイトルだけ先に「ブランカ」と決めて物語を考え始めました。
まず考えたのは、その場所にいるはずのない動物がいるという設定でした。アラスカに虎がいた、みたいな話。それで戸惑う人と、それを狩る人の話を考えていたんです。
しかし虎というのは、かなり目立つ動物だから、長い話にはならないな、と。そこで、虎でなく特殊な犬にしようと思ったんです。
アラスカとシベリアとの間のベーリング海峡がときどき凍って通れるようになって、狐なんかがそんな時に移動するというのです。
それで、ベーリング海峡を越えて、ロシアからアラスカに渡って来る犬の話を考えついたんです。
「ブランカ」を描いたのはバイオテクノロジーが話題になり始めた頃で、バイオで改良された犬ということにしたらどうか、とアイデアが膨らみました。
それを思いついた時に、最初のシーンが出来上がったんです。氷の海を走ってくる一匹の犬から始めよう、と。
その犬が今まで見たことのないすごい犬だということを、猟師たちが見つけるというところまでは考えたんですけど、そのあとどう展開するかは描きながら考えました。
※※※以上、引用※※※
実際、この作品は、ブランカが氷原を走る場面で始まる。
この作品は、ラストがせつない。
ネタバレになってしまうが、、、
逃亡の旅で傷つき、疲れ果てたブランカは、最後に飼い主パトリシアと出会い、パトリシアに抱かれて息を引き取る。
これには、涙が出た。「フランダースの犬」級の涙ものだ。
正確には、もう少し話が続き、ブランカが逃走中に接した野生の狼との間に、子どもが生まれていた、というシーンで終わり、続編の作品「神の犬」につながる。
「ブランカ」は、犬でありながら主人公の心理描写を含めて、キャラクターがしっかりと作り込んであり、谷口の思い入れがうかがえる。
ちなみに、谷口の犬好きはよく知られるところ。
夫婦が年老いた飼い犬の最期を看取るという作品「犬を飼う」も書いている。
普通の漫画家なら絶対に書かないような地味なテーマだが、ペットへの向き合い方を考えさせられ、良い作品だ。
原作付きの作品の提案を受けると、「犬は出てくるの?」と尋ねていた、という逸話も、何かで読んだことがある。
本書「描くひと 谷口ジロー」に収録された、アシスタントらの座談会でも、谷口の犬好きは話題になっている。少し抜粋して引用する。
※※※以下、引用※※※
広木 そうなんです。「ブランカ」なんか、「これは売れる!」と内心で思っていたフシはあったよね。「犬が活躍して、売れないはずはない」って(笑)。
森 谷口さんの中で、犬の価値が大きすぎて(笑)。
真柄 サインでも、隙あらば犬とか猫を描きますから(笑)。
※※※以上、引用※※※
本書では、ファンタジー映画「ロード・オブ・ザ・リング」(原作はトールキンの小説「指輪物語」)の漫画化とか、松尾芭蕉の俳句の漫画化、小泉八雲を主人公にした作品を描きたいと考えていたという話も出てくる。
ゴッホを主人公にした作品を構想していたという話が特に興味深い。
夢枕獏らの対談によると、谷口は「ゴッホが自分の耳を切り落とす事件があったじゃないですか。そのあと、耳を押さえたまま、ゴッホは日本橋に立っているんです。その絵だけが浮かんでいるんだけど、ストーリーが浮かばないんだよね」と語っていたという。
これらの作品、どれも読んでみたかった。
2017年に69歳で亡くなったのが、本当に惜しまれる。