「千年の翼、百年の夢」谷口ジロー
漫画家・谷口ジローの「千年の翼、百年の夢」は、世界の漫画家がルーヴル美術館を題材に作品を制作する「ルーヴルBDプロジェクト」の参加作品。
日本の漫画家では、荒木飛呂彦も「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」を制作した。
「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」が荒木らしいホラーな作品だったのに対し、「千年の翼、百年の夢」は谷口らしく郷愁を織り込んだ、ルーヴルのガイドブック的な作品に仕上げている。
本書「千年の翼、百年の夢」は、一連の短編5編で構成。
ルーヴルを訪れた主人公が「ルーヴル宮の守り人」と名乗る不思議に女性に導かれて現実と夢のはざまを漂い、ルーヴルの歴史に触れたり、ゴッホと出会ったりする。
興味深い逸話もある。
例えば、第2次世界大戦中にナチスドイツの侵攻を控え、美術品が略奪されないよう、避難が行われたこと。
フランスらしいと感じ、これが日本だったらどうだろうかと想像した。
たぶん、日本の美術品を守ろうというような発想は持たなかっただろう。
明治維新という日本の歴史の大きな転換点で、日本人は日本の美術品や文化財の価値を軽んじ、海外に流出した。
その結果として、日本の美術が高く評価され、浮世絵の影響を受けたゴッホの作品が生まれたり、アールヌーボーという芸術運動が生まれたりしており、良いような悪いようなという気持ちだ。
アールヌーボーの代表的な画家、ミュシャの草花をあしらった装飾的なデザインは、その典型だと言われる。
第2次世界大戦後は日本の美術品が収奪された。
例えば、独特の「乳白色」の裸婦画で知られる画家、藤田嗣治の代表作のひとつで、戦中に描いた戦争画「アッツ島玉砕」は戦後、米国に接収され、その後、無期限貸与という形で日本に戻って東京国立近代美術館が保管している。
返還ではなく貸与というところがポイントだ。
不思議な女性「ルーヴル宮の守り人」は、ルーヴル所蔵の彫像「サモトラケのニケ」の化身だった。
主人公が、現実と夢のはざまの世界で、誰も来館者がいない現実と夢のはざまの状態で、ダヴィンチの名画「モナリザ」をゆっくりと鑑賞している姿と、来館者で混雑する本来の様子を対比する描写も、面白い。
守り人のニケは「ふふ。もう絵画鑑賞どころではないでしょう。すっかり観光名所と化してしまっています」と話す。
先日、取材したトークイベントで、ある現代美術家が美術館について語っていたことを思い出す。
「日常から離れて、心が落ち着く。あるいは、じっくりと物事を考えられる。神社や寺みたいな特殊な空間だ。一方で、美術館はみんなのものだから、自由に集まれる。そうして、あまり多くの人がいると、そういう空間にならない。この折り合いをどう付けるかが課題だと思う」と。
「千年の翼、百年の夢」の主人公のように、来館者がほかにいない状態で、ガイド付きで、ゆっくりとルーヴル美術館を見て回れたらいいなと思う。
余談・ヴェネツィアのガイドブックもある
ガイドブック的な作品と言えば、谷口ジローは「ヴェネツィア」という作品も手がけている。
「ルイ・ヴィトン トラベルブック」シリーズのひとつとして、ルイ・ヴィトンから依頼を受けて制作した。
セリフや説明文はほとんどなく、ひたすら絵で見せる。谷口漫画の本領が発揮された作品で、見ていると、ヴェネツィアを訪れた気分を味わえて、面白い。
ストーリーもいい。
主人公は、祖母が亡くなり、遺品を整理していて、若い頃の祖母と幼い頃の母を撮ったとみられる古い写真を見つける。
主人公は、撮影地とみられるヴェネツィアを訪ね、祖母と母、そして、会ったこともない祖父の足跡をたどる。
結論としては、祖父はヴェネツィアで画家として暮らしており、何らかの事情で離れて暮らしていた祖母と母がヴェネツィアを訪ね、その時に写真は撮られたらしいことが判明する。
主人公がタイムスリップして、若い頃の父がなぜ家族を残して失踪したのかの謎に迫る「遥かなる町へ」、父の葬儀の時の親戚との会話がきっかけで、父の秘めた思いを知る「父の暦」といった谷口漫画と同様に、家族をテーマにした秀作だ。