
「おすしがふくをかいにきた」田中達也
私は空想癖があるせいか、人と向かい合って話す時とか、しばらく相手の顔を見ていると、変な気持ちがわいてくる。
今、相手の目玉に指を突っ込んだら、どうなるだろうか、と。
もちろん、実行はしない。
しないけども、相手は私がそんなことを考えているとは思いもよらないだろうと考えると、おかしくなってきて、笑いをかみ殺すのに苦労する。
きっと、相手は「この人、なんか、変」と感じていることだろう。
目玉に関して言うと、猫は、さらに誘惑度が高い(わが家では猫を飼っている)。
人間より目玉が出ているから、横顔を見ると、目玉のプルプルした感じがよくわかる。
あー、指でギュッと押してみたいという気持ちになってくる(実行はしない)。
新聞の1面コラムの執筆を担当していた頃、空想をテーマに展開し、この目玉の話を盛り込もうとしたことがある。
さすがに、論説デスク(論説委員長)からストップがかかった。
「人間の目玉を突いたら、まずいだろう。猫でも、動物愛護団体から苦情が来る」と。
結局、無難な内容の空想に置き換えた。
当時は新型コロナウイルス禍の最中だったから、「新型コロナ禍で気持ちが暗くなりがちだけども、みんなのマスクの下の顔が実は笑顔だったら、と想像すると、気分が明るくなる」みたいなことを書いて、締めくくったのを覚えている。
私の空想癖は、母譲り。
母は、いわゆる霊感があるタイプで、「人魂を見た」とか「死んだ親戚が夢に出てきて、あの世に引っ張られそうになった」とか言うのだけど、空想も激しい。
「赤ちゃんのプニプニした腕を見ると、噛みつきたくなる」とかは、私と同レベルで、たいしたことないけど、面白いことも言う。
たとえば「なんで、人間の足は、前を向いているんだろうか」とか問うてくる。
私は「人間、前向きに生きろってことじゃないか」と答えながらも、頭の中では想像が刺激され、膨らんでいく。
私の空想は常識の範囲内で、あまり面白くないけど、人並外れた空想力と表現力があれば、作家になれたかもしれない。
せめて母レベルのセンスがあればとも思う。
見立て作家・田中達也の作品「おすしがふくをかいにきた」を見て、空想の楽しさに、あらためて思いをはせた。
シャリがネタを着替え。
ホットドッグは、ソーセージが乗る車。
イチゴのショートケーキは、ふかふかのベッドに寝るイチゴ。



擬人化は空想の基本で、かわいらしい作品に仕上げているのが、すごい。
私や母のような、ただの空想家と、著者のような芸術家の違いはここにある。
回転寿司店では最近、タブレットでの注文が主流になり、いたずら防止もあってか、レーンを寿司が流れなくなってきたように感じる。
好きな物を頼むという楽しみ方を否定するつもりはない。
しかし、いくつか好きな物を頼んで食べ、ある程度満足したところで、レーンを流れる寿司と、目が合うというか、「取って」という声が聞こえてくるというか、出会いの楽しさも回転寿司にはある。
私は、誰にも取ってもらえず、ずっと、レーンを流れている寿司を見ると、かわいそうに思って取っていたものだ。
回転寿司店で、そんな哀れを感じる機会が減ったのは、少し寂しく思う。
嘉門タツオ(嘉門達夫)は、寿司のせつない心情を「私はバッテラ」で、情感たっぷりに歌い上げた。
「マグロにハマチにエビにタコ・・・みんな、どんどん売れてゆく。なのに、あたしは回るよ、回る。回り続ける、あたしはバッテラ」と。
(1983年のデビューシングル「ヤンキーの兄ちゃんのうた」のカップリング曲)。
寿司が回り続けるという状況がなくなっていけば、いずれ、この名曲は、意味が通じない歌になってしまうのだろうか。
いや、いにしえの回転寿司文化をリアルに伝える歌として、文化財的な輝きを帯びていくのかもしれない。
こんな風に、私の空想は、隘路に入り込んで膨らみ、とめどなく漂流し、ただただ、空想で終わるのだ。
