「ごんぎつね」新美南吉
「ごん、おまえだったのか。いつも、栗をくれたのは」。ごんはぐったりと目をつぶったまま、うなずきました───
おなじみの童話「ごんぎつね」(新美南吉)に多くの人が考えさせられたに違いない。
私は、小学校の国語で接した当時、現実には秘めた善意が伝わることはあまりなく、しょせんは作り話だ、と感じた。問われて、うなずいたごんには恩着せがましさを感じた。今にして思えば、ひねくれた見方だ。
プロレス漫画の名作「タイガーマスク」(原作・梶原一騎、作画・辻なおき)は主人公・伊達直人がタイガーマスクとして命懸けのプロレスで賞金を稼いでいることを隠し、金持ちの気まぐれを装って児童福祉施設に寄付を続ける。施設の子どもに引け目を感じさせまいとの配慮からだ。
ドリー・ファンク・ジュニアとの試合会場に向かう途中、交通事故でひっそりと死に、最後まで正体を悟らせなかった。
直人にほれ、うすうす正体に気づいていた施設経営者・若月ルリ子が「あなたらしい」とひそかに涙を流したものの、健太ら施設の子どもは全く気づかず「タイガーはどこか外国にでも行ってしまったのさ」程度の受け止め。
これが世の中の現実だろうと、子どもの頃は、この漫画のほうに共感を覚えた。
ごんが兵十に悪さをしたことを悔やみ、こっそりと栗を届けて罪滅ぼししていたことが発覚する結末になっているのは、なぜなのか。
現実には秘めた善意が伝わることはあまりないという私の見方は今も変わらない。
だが、そのうえで思うことは、昔とは違う。
悪意のあるはずの相手が実は、善意を寄せているかもしれない。悪さをした相手が実は、悔やんでいるかもしれない。そんな想像力を育む物語かと。
兵十は「ごんに悪いことをしてしまった」と自責の念にかられたかもしれない。でも、ごんは「兵十の気持ちも分かったよ」という意味も含めて、うなずいたのだろう。
その後、兵十は、もっと他人を思いやれる人間に成長したのではないか。
タイガーマスクも最後に正体がわかっていれば、健太らは直人の心遣いに気づき、冷ややかに接してきた自らを省みて、人間として成長したのではないか。
「ごんぎつね」は、善意に気付いた時は手遅れという点に悲しい教訓がある。
(ごんが死んだかどうかは明確に書かれていないが、死んだと想像させるから、悲劇としてインパクトのある教訓となっている)。
相手が善意を寄せているかもしれない、悔やんでいるかもしれないと想像したら、他人に優しくなれるはずだ。