
「あらしのよるに」作・木村裕一、絵・あべ弘士
先入観なしに心を開いてみると、立場の違う者同士でも仲良くなれる。
相手が誰かわからない状態で話したほうが案外、心を開けるのかもしれない。
絵本「あらしのよるに」(作・木村裕一、絵・あべ弘士)は、子ども向けの絵本なのに、大人にとっても読み応えがある名作だ。
今年秋の引っ越しに向けて自宅の片付けをしていたら、長女が幼い頃に読んでいた本が何冊か、出てきた。
そのひとつが絵本「あらしのよるに」。
1994年に発行された本だけど、うちにあったのは、2000年12月の第13刷。
当時3歳の長女に読んでやろうと思って、私たち夫婦が選んで、買ったのだろう。
「あらしのよるに」は、嵐の夜、たまたま小屋に避難して居合わせたヤギとオオカミが、相手が何者か知らないまま、心を通わせる物語。
本来であれば、ヤギにとっては捕食者、オオカミにとってはエサと心を通わせるのが面白い。
小屋の中は暗闇。
しかも、お互いに風邪をひいていて、鼻が利かず、相手のニオイもわからない。
お互いの存在に気づき、言葉を交わすのだけども、相手が何者かは気づかないまま、物語が進む。
「あなたが来てくれて、ホッとしましたよ」(ヤギ)、「そりゃ、おいらだって、嵐の夜に、こんな小屋にひとりぼっちじゃ、心細くなっちまいやすよ」(オオカミ)といった調子だ。

正体がバレそうでバレない、ハラハラがこれまた、面白い。
少し抜粋すると・・・
オオカミの笑い声を聞いて、ヤギは思わず「オオカミみたいな、凄みのある低いお声で」と言いかけたが、失礼だと思い、口を閉じる。
オオカミのほうも、「まるで、ヤギみたいに甲高い笑い方でやんすね」って、言おうとしたが、そんなことを言ったら、相手が気を悪くすると思い、やめることにする。
(以上、抜粋)
・・・といった感じ。

途中、稲妻が光って、一瞬、小屋の中が昼間のように明るくなる場面もある。
しかし、ヤギはうっかりと下を向き、オオカミは目をつぶってしまって、相手の姿は見ていない。
ついには、雷の轟音に驚き、しっかりと身を寄せ合ってしまう。
それでも、相手が何者か、気づかない。
このあたりは、ドリフのコントを見ているような面白さだ。
お互いに翌日の昼に、この小屋の前で待ち合わせて再会することを約束して、別れる締めくくりが、また、笑わせる。
抜粋してみる。
明くる日、この丘の下で、何が起こるのか。
木の葉のしずくをきらめかせ、ちょっぴりと顔を出してきた朝日にも、そんなこと、わかるはずもない。
(以上、抜粋)
この絵本は、読み聞かせをする大人を笑わせ、子どもとほんわかした時間を過ごせるように計算して書かれたのではないかと思ってしまうほど。
名作だ。
ちなみにシリーズ第2作「あるはれたひに」では、翌日昼に再会したヤギとオオカミが、お互いに相手が何者か知っても、心を通わせ続けるストーリー。
それぞれの葛藤も描かれる。
ヤギのお尻を見るうちに、食欲を感じてしまったオオカミは「ああ、おいら、なんてやつだ。たとえ、一瞬でも友達のことをうまそうだなんて」と自分を責める。
オオカミに食べられる不安を一瞬感じてしまったヤギのほうも「ああ、わたしはなんてやつだ。たとえ、一瞬でも友達を疑うなんて」と自分を責める。
・・・といった調子だ。
3歳の長女は、この作品のメッセージを読み取れただろうか。
もっと幼い頃に読み聞かせをした絵本「いないいないばあ」(松谷みよ子)や「きんぎょがにげた」(五味太郎)だと、長女が喜んでいた姿を覚えているけど・・・
「あらしのよるに」を長女が喜んでいたかどうかは、覚えていない。
本来ならエサと捕食者の関係にあるヤギとオオカミが仲良くなる面白さだけでも、伝わっていれば、いい。
今度、長女に会った時に聞いてみたい。
「あらしのよるに」シリーズのように、長女のために買ったのに、私たち夫婦がのめり込んだ本は、ほかにもある。
たとえば、児童書「かいけつゾロリ」シリーズ(原ゆたか)。
これも、まだ、自宅に残っている。
「かいけつゾロリ」についても、機会をあらためて書いてみたい。



